作文

遅れている税制改革 (2011-09-19)

 東日本大震災に破壊された地域を復興するには、資金が必要だ。そのため、税制改革を巡る議論が行われている。この選択肢について書きたいと思う。

 日本が直面する問題は多数ある。むろん、復旧や脱原発や新エネルギーの発展などの大震災に関わる問題がある。その上、円高や日本産業の空洞化などの新興国との競争の問題もある。最後に、国債の返済や高齢化などの構造的な問題もある。この終わらない病のリストにどう対処するのか。  この複数の問題を解決するため、政府は様々な税源を検討している。この税源が与えるインセンティブをも検討すべきだと思う。

 法人税を増税すれば、日本の企業が外国へ移転し、空洞化が進む。外国の企業が日本に来なかったり、投資しなかったりする。あまり望ましくなさそうだ。

 消費税を増税すれば、人々が消費を制限する恐れがある。が、消費税増税した国々の例を見ると、その減少は六ヶ月で収まると推定できる。その後、インフレや円安や外国からの投資につながるかもしれない。

 他の税の増税も検討されているが、影響は曖昧だ。所得税を増税すれば、人々がもっと働きたくなるが、できない場合には困ってしまう。所得の少ない人々が消費を制限する恐れもある。タバコ税増税は、人々を禁煙に向かわせるので、健康の改善や寿命の伸びにつながる。残念ながら、経済的な影響はないはずだ。なぜならば、タバコ税を払う人々の数が減るからだ。その上、タバコによる医療支出が下がる一方、寿命が延びるため、他の病気による医療支出を払う期間が長くなる。日本タバコや郵政株などの所有物を売却する提案もあった。インセンティブを与えないが、税金負担を和らげるので、望ましいと思う。

 日本政府は、どの選択肢を選ぶのか。法人税を増税すれば、空洞化のせいで、人口の五パーセントが失業し、所得の百パーセントを失う。消費税を増税すれば、人口の百パーセントが所得の五パーセントを失う。 日本の政治家にはどちらがよいのか、全然分からない。 

コンピュータゲームの将来 (2011-09-12)

 映画の収益より、コンピュータゲームの収益は高いが、主流メディアとして認められていない。なぜなのか。次世代のゲームを開発するため、どうすればいいのだろうか。

 ヴィデオゲームの世界は異世界に見えるが、現実の世界と異なるわけではない。例えば、ゲームを使って、人々が、新しい社会的な絆を作ることができる。ゲームによって実世界を脱出しても、本や映画と違って、本物の人間と出会ってしまう。「セカンドライフ」のように、自己の通貨を持つゲームもある。ゲームの世界は、二十一世紀の商店街になるかもしれない。

 最近、娯楽だけでなく、他の役割を果たすヴィデオゲームが開発された。例えば、コンピュータ支援の手術はヴィデオゲームとよく似ているので、外科医の訓練のため、ヴィデオゲームが使われている。広告としてゲームを使う会社や組織もある。もし地球温暖化に気づくことが十年遅ければ、アル・ゴアは、映画の代わりに、「不都合な真実」というゲームを開発していたかもしれない。

 現在のウェッブの一つの問題は、受動的である。ヴィデオゲームはこの問題を解決能力を持つはずだ。もしフェイスブックやがツイッターがウェッブサイトではなく、ゲームであれば、どうだろう。実は、このようなゲームはもう存在している。「セカンドライフ」というゲームだ。人気を集めたが、画質が低いので、単なる概念実証しかない。「シリアスゲーム」、すなわち教育のためのゲームもアマっぽいのだ。

 運動を奨励する「ウィーフィット」や「シリアスゲーム」などの新しい種類のヴィデオゲームが開発されているが、未完成に見える。ゲームは異世界を築くため、新技術の発展は必要だ。立体テレビは、その方向への一歩だが、道は長いに違いない。

人間と動物 (2011-09-05)

 毎年、欧米で数十件のテロ事件が起こっている。それは、外国から来たテロリストではなく、主に、動物の権利活動家達だ。社長や研究者を人質に取ったり、車を爆発させたり、工場や研究所を破壊したりした暴力行為は珍しくない。人間と動物の関係の在り方について書きたいと思う。

 動物はペットや食品や資産として人間に仕えるが、人間と動物の境目は曖昧だ。その理由の一つは、ペットを家族の一人として見ている人々は多いことだ。二つ目は、肉を食べる人々は肉が殺された動物の一部だという事実を認めたくないということだ。三つ目、生物多様性が資産だが、会計士にあまり認められていないので、自然資源の無駄遣いにつながってしまうということだ。

 それにもかかわらず、動物はいつも人間より低い地位を持つわけではない。時々、人間より尊敬されている。例えば、動物の死は、人間の死より優しいかもしれない。なぜならば、人間の安楽死は法律に厳しく制限されているからだ。人間の扱い方は、宗教に定められているので、改善しにくい。いらない動物の処分も、人間の死刑執行より慈悲深い。

 将来、動物を人間と同じに扱うことが望ましいかもしれないが、できない。なぜならば、そのために皆は肉を食べることを止める必要があるからだ。この個人的な選択を、あらゆる人間に与えるのは、無理だ。が、動物と人間の違いは不安定だ。動物たちの行為や認識が分かることに伴って、動物は思ったより人間と近いと分かってくる。

 この不安定性のせいで、人間と動物の関係の在り方の問題は残っている。道徳的な答えがないが、会計的な答えがあるかもしれない。生物多様性を資産として認め、正しい価値を与えれば、自然資源の無駄遣いを防ぐことができると思う。さらに、情報流通の改善も必要だ。治療研究や食料チェーンやペット業界の内情はあまり知られていないので、動物のイメージが理想的になった。その内情が分かることによって、動物の扱い方や感じ方や必要性の認識を高める必要があると思う。

多国無境 (2011-08-29)

 政治哲学者達は、完璧な政治制度を見つけるため、思考実験をしている。例えば、プラトンが、アトランティスの神話を作った。SFの作家も、新しい政治制度を考えて見ているが、想像力が不十分だと思う。彼らが考えた政治制度はすでに存在している制度とよく似ているからだ。戦争の時代には、戦争を好む国々があったり、文明の終末の前には、一つの国の民主主義があったり、文明の終末のすぐ前には、独裁があったり、文明の終末の後には、無政府状態があったりしている。戦争の時代には、政府は必要だが、人類がその段階を越える未来に、政府のない状態ができるのか。

 かつては、政府と会社は別なものだと考えられていたが、現代の政府は、すでに会社と競争している。例えば、社会保険や教育やインフラなどの基本的なサービスを提供する会社がある。警備サービスや傭兵などの特別な分野にも会社がある。契約が守られるためには、政府が必要だと思われているかもしれないが、第三者がいれば、充分だ。政府が貿易のための枠組みを築いているが、国と国の間の貿易は、貿易を奨励する国際的な組織がなかった時代にも、国際的な貿易はあった。政府は必要ではない。

 それにもかかわらず、競争がないため、政府の大切な役割が残っている。まず、政府の役割は、表現の自由を守ったり、情報を流通させたり、透明性を奨励したりすることだ。残念ながら、福島第一原発事故を見ると、情報が十分流通していないことが分かる。さらに、長期間の計画を立てることだ。だが、首相が毎年変わる日本を見ると、政府は業界より長期間の洞察を持たなさそうだ。

 異世界の政治制度を描写したいSFの作家に二つの制度を紹介したいと思う。その一、政府の存在は独占の一種なのだ。複数の政府の世界で、人々が、消費者として、自分に一番適当な政府が選べれば、より効果的な政府が発展するはずだ。その二、鳥の群れのように、指導者のない団体は自己組織化ができるので、政府のない世界も考えられる。

 現在、政府は、自由や平等を保ったり、混乱を予防したりするため、まだ必要だが、政治制度の多様性や競争は望ましい。人々が、国を選ぶことができれば、その競争が発生するはずだ。政府を廃止する時間は、まだ早過ぎるが、境界を廃止する時間は近いかもしれない。

現代社会の檻 (2011-08-22)

 今年、世界中で、暴動が起こりつつある。民主主義国であるはずのイギリスでも、民主主義でない中東の各国でも、紛争が発生している。この二つの動きは、何が違うのか。何かが違うのか。

 違いは表面的で本質は同じだ。貧困や失業のせいで、人々が、未来への希望を失ってしまった。未来を築くのは、政府の一つの役割なのだ。政府はこの役割を果たさなくなった場合、すなわち政治の世界と民衆の世界が断絶する場合、紛争が発生しかねない。なぜ希望が消えてしまったのか。

 社会の安定を守るのは、政府と民衆の間の「社会契約」というものだ。この契約によって、民衆が権力や自由を政府に譲る代わりに、政府に守られたり、より良い未来を作るチャンスを得たりする。が、民主主義が支配すると思われている国でも、この契約は破綻してしまった。なぜかというと、権力のバランスが変わったからだ。

 かつて、政府と民衆の間に権力のバランスがあったかもしれないが、現在では民間が権力を完全に失ってしまった。政府や会社やメディアが対立した時代、民間が権力を持たなくても、誰かが民間の視点を発表した。しかし、最近、政府や会社やメディアが結託し、民間と対立するようになった。独裁は、むろん、その例であるが、民主主義が不平等を許したり、政府が民衆から会社の利益を守ったりするのも、その例である。民主主義を唱える国でも、民衆は市民的不服従が必要になってしまった。

 この「社会契約」の概念には、問題がある。人々は、この契約を受け取れるが、選べない。この契約に満足しない場合でも、契約を断ることができない。昔、開拓者になり、社会を出ることができたが、現代、できなくなってしまった。社会契約は、未来を築く仕組みから、檻に変化した。

 世界中で相次いで発生する暴動は、社会契約の不履行の症状だ。平和を復活するため、二つの変動が必要だと思う。まず、会社や政治家ではなく、民衆を中心にし、従来の社会契約を書き直す必要がある。さらに、社会契約を選んだり、断ったりする仕組みを考えることが望ましい。新西部開拓時代を待っている。

技術の本質 (2011-08-15)

 我々は技術的な社会に属することを誇りとしている。祖先と比べると偉いと思っているかもしれないが、そうではない。進歩の加速化のため、技術との関係は妙なことになった。

 子供の時、ジュール・ヴェルヌの「神秘の島」という小説を読んだ。この小説で、五人の団体が無人島に孤立してしまい、ゼロから技術的な社会を再建した。が、半導体が普及したことによって、この出来事は無理になった。例えば、最近、ある芸術家がゼロからトースターを造ってみた。鉄鉱石から鉄を造ったり、石油からプラスチックを造ったりするのは、ほぼ無理なので、トースターみたいなものができたが、機能しなかった。  七十年代には、冷蔵庫や車などの日常生活で使われているものを自分で組み立てたり、修理したり、変更したりすることができたが、今はできなくなってしまった。例えば、現代のテレビは修理できない。なぜならば、あらゆる所にコンピュータチップが使われているからだ。さらに、変更が規制されたり、禁止されたりする場合が多い。例えば、電話会社は客が携帯電話の中身を変更したり、自分が発展したプログラムを使ったりしないように仕組みを考えている。ものをコントロールするのは、ものを買った客ではなく、ものを生産した会社になった。

 人々が、現代の技術をコントロールできなくなったが、希望がある。まず、コンピュータチップが遍在しているので、客がこのチップをプログラムすることを許せば、買ったもののコントロールを回復できる。さらに、3Dプリンタや「ファブラボ」のおかげで、ものの設計や生産が、会社から個人へ転換できるかもしれない。

 技術的な社会なのに、我々が、技術の創造者ではなく、技術のユーザに過ぎない。技術のコントロールを回復するため、次の段階が必要だと思う。まず、修理できる器具を開発する必要がある。新興国市場にも必要なので、問題はなさそうだ。さらに、発展への規制を廃止し、ユーザに権限を与える必要がある。最後に、ファブラボのような仕組みを使って、個人の革新を奨励することが望ましい。 技術への態度が受動的に残るかどうか、まだ分からない。

簡素化し過ぎる日本 (2011-08-08)

 福島第一原発事故について、日本政府はほとんど何も決定しないが、決定する場合は、簡素化し過ぎた根拠に基づいている。例えば、事故の直後、政府は汚染された地域の形がもう分かったが、同心円の地域へ避難命令を出した。その結果、汚染されていなかった地域から汚染された地域へ避難した人もいた。簡素さや複雑さのバランスの問題はこの事故に限られたことではない。このバランスについて書きたいと思う。

 簡素は望ましい。なぜならば、簡素化された情報に基づくなら、素早く決定できるからだ。それなのに、過剰な簡素化は危険だ。まず、アマチュアらしく見えて、リーダシップを発揮したい日本政府には、逆効果だ。さらに、間違った決定につながる。例えば、エネルギーのピーク消費を下げるため、政府は総消費量を焦点にしている。そのため、電気供給に問題のない夜でも、人々が節電し、道は暗くなってしまった。

 簡素さと複雑さのバランスは微妙だ。十分情報を簡素化しない場合にも、問題がある。まず、人々が分かりにくい情報を無視しがちだ。さらに、逆効果の恐れもある。例えば、人々に何かをやらせるため、すなわちインセンティブとして、税金制度を使っている国が多いが、制度が複雑になった場合、人々が、制度の欠点を探してしまう。

 簡素さと複雑さのバランスは取りにくいので、決定を延期しないように、多少簡素化された情報に基づいて決定することは望ましい。完璧な決定でなくても、決定のない状態よりはよいはずだ。むろん、完璧な決定でないことを忘れずに、決定を批評的に考慮し、徐々に改善する必要がある。                 

 簡素化と複雑化の危険性を防ぐため、多少簡素化された情報に基づいて決定し、情報の複雑さを把握しつつ、決定を改良することが望ましい。この考え方は正しければ、なぜ、日本の場合には、この仕組みが実行されないのか。情報公開が不足しているかもしれない。数週間が経って、やっと情報が公表されるのでは、民間は政府の行為を批評できない。情報公開が民主主義の前提条件である。原発事故が明らかにしたのは、日本の発電所の危険性だけでなく、日本の民主主義の病もである。

メディアの黄昏 (2011-08-01)

長い間、メディアが、政治の権力を制限するという大切な役割を果たしていた。が、最近、メディアはラジオのようにもう消えてしまったり、英国のタブロイド紙のようにスキャンダルによって人々の信頼を失ったりしている。新聞の例を使って、メディアの衰退やメディアの代替の有無について書きたいと思う。

新聞は、読者の注目を引くため、スキャンダルを探したり、情報を簡素化し過ぎて印象的な見出しを作ったりしている。情報が嘘でなくても、編集者の意志によって選択されているので、客観的ではない。その結果、読者は新聞を信頼することができなくなった。例えば、インターネットによる著作権侵害の問題について、新聞は、著作権を持つ会社の視点は紹介しているが、ユーザや芸術家の視点は無視している。ただし、この行動はメディアの自己破壊ではない。政治権力を制限する役割を辞め、娯楽を提供する役割に転換している。

調査報道はもう存在しない。現代の新聞の仕事は、どこかに潜んでいる情報を探すことではなく、簡単に手に入る情報を集めたり、編集したりすることだ。新聞は、たんなる情報の仲介者になった。だが、調査報道と違って、情報の仲介者はコンピュータにもできるため、新聞はこのまま存続できない。むろん、コンピュータが社説や要約を書くことができないので、新聞が存続する希望が残っているが、新聞を救うため、十分かどうか、まだ分からない。

メディアが政治権力を制限する役割を辞めているが、ブロゴスフィアがこの役割を果たすことができると思っている人が多い。ウィキペディアが、素人でも知識を組み合わせて信頼できる記事を書ける証拠であるが、問題が残っている。まず、素人が、信頼できる記事を書くのは、時間がかかる。これは、ニュースには、不適当だ。さらに、ブロゴスフィアには中央がないので、情報を探すのが難しい。多数のサイトの情報を集めるサイトやソフトがあるが、人々が、自分とよく似ている情報源しか読まなくなる恐れがある。

 新聞の役割は調査報道や政治権力の制限から娯楽や情報仲介へ転換しつつあるので、政治権力を制限する役割を果たせる新メディアを見つける必要がある。ブロゴスフィアのように、個人で作られたメディアが解決になるかもしれないが、情報の分散の懸念がある。表現の自由が残っていても、自分の意見と一致する情報源しか聞かないなら、十分ではない。情報の時代は、情報が届かない時代になるかな。

日本のリーダーシップ危機 (2011-07-25)

日本の原発危機の目途はまだ立っていない。他国と違って、今回の危機を克服し、次の危機を防ぐための決定もまだされていない。例えば、フランスは安全性の水準を高め、原子力発電所の安全装置をより詳細に説明している。ドイツは、フランスから電気を買い、原子力や化石燃料の依存をなくすため、新エネルギーを発展させていく方針を高めてきた。日本のためらいの原因と解決を分析したいと思う。

現在の危機の原因は地震や津波のリスク評価の不十分さや、発電会社の領域独占や、危機に対処する対策の欠如や、不透明さによる情報不足などである。どの方向に向かっても、問題があるので、政治家たちはためらっている。この危機を乗り越えるため、この複数の問題を整理して、順序に従って対処していく必要がある。すなわち、指導が必要だ。

危機を越えるための指導は、「リーダシップ」ともいう。皆が賛成する完璧な解決を探るのは、逆効果だ。なぜならば、提案が一致するには、時間がかかる。完璧な解決への道をゆっくりたどるとき、状況が悪化していく恐れがある。完璧でない解決であっても、状況を改善できる。さらに、決定がないかぎり、企業が計画を作り上げることができない。不確かな将来は企業発展の妨げになる。

日本の状況を改善するため、どうすればいいのだろうか。メディアや政治家たちが代替物を探し、菅首相を見つけた。もちろん、問題と関係はないので、首相を変えても、ためらいは続ける。日本の長老支配や縁故主義を改善するため、政治家の年齢制限の提案があったが、制限を越えた政治家たちが闇から若い政治家を操ることができるので、これも効果がない。

 今のリーダーシップ危機の原因は、ある人にあるのではなく、日本政界全体の構造や日本社会の考え方に潜んでいると思う。決定するのは、人ではなく、団体だ。危機でない時、このやり方は、より効果的な決定につながるが、危機の時、決定につながらない。

 日本の政界がリーダーシップ危機を患っているが、菅首相が退陣しても、状況は改善しない。人事の問題ではなく、構造的な問題だ。ローマ時代のように、一時的に団体による決断過程や民主主義を忘れ、独裁者に従う時ではないか。

今日の法律の病 (2011-06-27)

国や時代によって、法律は異なっている。科学と違って、法律は、普遍的どころか、歴史の浮き沈みを反映している。が、その多様性は表面的だ。国や時代を問わず、人々は同様の性質を持つ法律を制定することによって、同じ目的を果たそうとしている。この目的や性質を紹介してから法律の現状を分析したいと思う。

法律の目的は、何だろうか。視点によって、二つの目的が考えられる。まず、支配者にとって、法律の目的は、権力を守ることだ。例えば中世ヨーロッパのマキャヴェッリや中国の戦国時代の法家の支配者への助言がその例である。次に、国民にとって、法律の目的は、戦争や犯罪の中にあって、安全性を確保することだ。

これらの目的を果たすため効率の高い法律は、次の特徴を持っている。まず、法律が分かりやすさだ。国民は理解できず、法律を守ることができない。次に、刑の厳しさと刑が執行されることだ。例えば、ある法律がめったに執行されていなければ、人々はその法律を守らない。あらゆる犯罪が同じ刑罰につながるなら、小さい犯罪を犯してしまった者が、より深刻な犯罪を犯しようになる。

 法律の目的や望ましい姿を考えると、今日の各国の法律には様々な問題があることがすぐ分かる。戦争はまだ存在し、犯罪率はまだ高いし、法律は複雑過ぎるので専門家にしか分からないし、執行されていない法律はまれではないし、厳しくない刑罰は税金を払うようだし、死刑のような厳しい刑罰の執行は抽選に当たるようだし、どの視点から見ても、失敗だ。一番の問題は、複雑さだ。時間の経過に連れて、新しい法律は徐々に現れるが、古い法律はめったに廃止されていない。法律の簡素化は必要だと思う。さらに、今日では、国家間の法律の競争が出現している。例えば、タックス・ヘイヴンでは、税法や金融の法律が、やさしいので、投資家を引き寄せている。無駄な競争を避けるため、他国と法律の統一が必要だと思う。

 法律は国々の歴史や文化を反映しているが、時に、古い法律や時代の変化のため、法律制度を徹底的に改革する必要がある。革命や世界大戦は歴史上その役割を果たしていたが、昨今、先進国には、このような現象は起こっていない。法律の改革が起こらなければ、グローバリゼーションの中で、先進国は発展途上国に負ける恐れがある。

科学と社会の矛盾 (2011-06-20)

 現代社会に、科学はどこにでもあるが、一般人に分かりにくくなってしまった。二百年前、分野の境目を無視し、科学の全てを分かる人はいたが、今日の科学が膨張したせいで、それが無理になってしまった。それなのに、現代社会は科学に基づいているので、科学の限界や科学的方法を分かる必要がある。

 「世界を分かるためどうすればいいのだろうか」という問題は、古い哲学的な問題だ。歴史上、信仰や確信や疑う余地のない原則などの答えは複数あったが、その中に問題点はいくつがあった。間違いが発見しにくいし、いくつかの事実が存在してしまった。今の科学的方法は反証可能性に基づく。つまり、ある仮説は正しいと証明できない。だが、正しくないと証明できる。例えば、仮説が実験と矛盾すれば、正しくないと分かる。矛盾を見つけなければ、「まだ正しくないと証明していなかった」としか言えない。

 科学を誤解している人々の中で、一番心配すべきなのは、政治家たちだ。まず、仮説の正しさの証明を待っている政治家がいる。地球温暖化が人類に及ぼしている証拠を待っていたブッシュ大統領は、その一例である。科学的に世界を見れば、仮説の正しさの証明は絶対ない。さらに、情報の発表を制限したり、法律を作ったりすることによって、科学を操る政治家もいる。福島原発の事故による放射性物質の散乱の予想の地図を公表しなかった日本政府はその一例である。

 一般人にも問題がある。例えば、原因と結果の見分けがつけられない人が多い。例えば、代替医療を奨励する人がこの誤解に付け込んでいる。この人の台詞を聞くと、患者は「効果があるから、原則は事実に違いない」と考えられている。さらに、不完全な科学的方法を疑わない人も大勢いる。観察してから理論を作り、この理論が正しくないと証明するために実験を行うことは、通常の科学的方法だ。観察に基づく理論を考えるのは、十分ではない。最後に、科学的な仮説と非科学的な仮説、すなわち反証可能性を持つ仮説と持たない仮説を混同する人が多い。米国で白熱している宗教と科学の議論はその一例である。

 現代社会は科学に基づいているのに、政治家も一般人も科学を勘違いしている。この矛盾を解決するため、テレビや新聞を使って人々の科学的な教育を改善したり、続けたりする必要があると思う。

地球温暖化の規模 (2011-06-13)

 福島原子力発電所の事故がきっかけで、脱原発を求める国が現れているが、原子力の代わりに化石燃料に頼れば、温暖化を悪化させる恐れがある。地球温暖化の深刻さやそれへの対策について書きたいと思う。

 人類による地球への悪影響は人々が考えられるより古い現象だ。二万年前、狩猟採集民である人間が農業を始めたとき、伐採が始まった。この一、二世紀、二酸化炭素の排出が増加し、状況が悪化してきた。人間が地球を変化させる時代、「アントロポセン」という本物の地質時代になるかもしれない。化石燃料や核実験などが氷床や地層に消えない痕跡を残しているからだ。

 複数のSF小説の中には、人類が新しい惑星を発見してから、地球環境に似せるために「テラフォーミング」という技術を使って海を作ったり、大気に酸素を加えたりする光景がある。現代の人間は、その逆をしている。人間がするべき次の作業は、生命に不適当になった地球を修復することだが、必要な技術はまだ存在しない。いくつかの手段は考えられるが効果や副作用の有無を確認するため、実行前に、実験が必要だ。残念ながら、地球以外、実験のための惑星はない。修復の手段は未来の技術のため、行き止まりだ。

 温暖化の問題を解決できないので、世界中、政治家たちは、事態の悪化を減速させようと誓った。だが、批判の声も聞こえている。例えば、地球を自然に委ねる提案があるが、自然の変化の規模は、百万年程度なので、我々人間には遅すぎる。その上、地球が安定した釣り合い状態へ向かっていても、この状態は死んでしまった惑星かもしれない。

 死に向かうつつある惑星を観察するのは、始末まで時間がかかるため、今生きている我々には悪くないが、次世代には望ましくない。地球を安全に修復できる技術がないので、事態を悪化させることを止める他には、何もできない。後は、次世代に頼むしかしようがない。我々の子孫は、「荒廃した惑星を修復しなさい」という遺言を受けて、この技術的な問題を解決できるかもしれない。

現代社会の封建的な価値 (2011-06-06)

 我々は現代社会を誇りとしている。前時代の社会に比べると自由や平等などの現代的な価値が守られているからだ。が、それは単なる錯覚である。お札に「神を信じる」と書くまで宗教を中心にしている米国や「君主制度」というカースト制度同様の身分制度を強く守っている英国や天皇陛下を崇拝している日本などは現代的な価値ではなく、封建的な価値を尊重している。どうしてこのような状況が発生したのか。部分的に封建的な価値を持っていても、大丈夫なのか。完全に現代的な社会を築くため、どうすればいいのだろうか。

 現代的な社会はゼロから現れたのではなく、長い歴史を持ち、構造や価値を受け継いできた。例えば、ヨーロッパの法律は数百年前に作られた。革命が起き、新しい思想を普及させたり、社会の構造の細部を改善したりしたが、抜本的な構造変化をもたらさなかった。社会は、惰力のため、部分的にしか進展しなかった。社会の構造や機関が完璧ではなくても技術や貿易の発展は妨げられないので、不平等や自由の制限がある程度を越えないかぎり、変化の必要はないと考えている人が革命を経験している人の中にも、大勢いる。  完璧な社会を作ることは難しいが、自国の自由を制限しているのに、自由のために、テロや独裁政権と戦うのは、矛盾している。敵と同様に自由の原則の例外を認めているからだ。自称善玉も悪玉である敵も自由を尊重していない。許される例外が他の例外へと伝染の恐れもある。

 その矛盾した状態を解決するため、我々の社会の価値の根拠を外の視点から検証できれば、一番変えるべき点が分かるはずだ。外の視点は存在しないが、文学や映画は現代社会を批判したり、存在しない社会を検証したりできる。十八世紀に、ヨーロッパ繁栄の時代、ヴォルテールというフランスの作家が自分の社会を批判するため、この仕組みを使った。さらに、現代社会の価値が社会構造や歴史や法律などによって生み出された。複雑過ぎるため、一見改善できないように見えるが、第一原理に戻れば、できるはずだと思う。すなわち、「国際憲法」といえる基本的な原則が必要だ。人権宣言がその役割を果たすはずだが、まだ十分ではない。

 我々が暮らしている社会は、歴史の惰力のせいで、まだ現代と呼ぶことができない。他国に、自由や平等などの普遍的な価値を与えるのは、望ましいが、その前、自国の価値の矛盾を解決するのは、前提条件だと思う。

ソーシャル・ネットワークの隆盛 (2011-05-30)

 ほとんど誰もがフェイスブックやリンクトインなどのソーシャル・ネットワークに属している。これらのサービスはなぜ今現れたのか。どのような役割を果たしているのか。そのサービスにはどのような危険性が潜んでいるのか。

 ソーシャル・ネットワークはそれほど新しい現象ではない。初めてのデジタル・ソーシャル・ネットワークは二十年前誕生した「IRC」だが、デジタルでないソーシャル・ネットワークは、人間と一緒に進化した。家族や宗教や政党や組合などがその例である。「ソーシャル・ネットワーク」とは単なる「社会的な組織」を意味する新語である。が、デジタル化のため、その組織が新しい特徴を持っている。まず、距離に関わらず、人々が組織に入ることができる。さらに、前時代の組織に比べると、その組織は固い構造を持っておらず、簡単に人々が新しい組織を創設したり、既存の組織に入ったりできる。

 ソーシャル・ネットワークの役割は、情報を交換することで、前時代の社会的な組織の役割が同じだが、数が違う。人々が複数の組織に属しているため、知り合いを使い、ある組織から他の組織へ飛び出すこともできる。前時代の組織と違い、ソーシャル・ネットワークは多様性を促進している。この多様性は、組織の価値である。

 それにもかかわらず、ソーシャル・ネットワークは新しい危険性を生み出している。例えば、デジタル化のため、個人情報流出のリスクは高くなった。個人情報を守る仕組みがあるが、友達の情報を使って、ある人の個人情報が推測できる。

 さらに、ソーシャル・ネットワークの利益はユーザが考えているより低いかもしれない。その媒体を使うことによって、情報を手に入れることができるが、必要以上に時間を使っている。その上デジタル化は絶え間のない作業の中断をもたらしているからだ。

 ソーシャル・ネットワークは単なる既存の社会的な組織の進化だが、デジタル化は新しい利益と同時に新しい危険性ももたらしている。集合知を得るため、注意が必要だと思う。

新技術、新犯罪 (2011-05-23)

最近、ソニーの個人情報の流出事件やアンドロイドを狙うウィルスのニュースがきっかけで、新技術の安全性を疑問視する声が聞こえる。新しい技術が患う病は本当に新しいのか。このリスクを生み出したり高めたりする状況を分析したいと思う。

コンピュータや携帯電話は新しい技術だが、最近の事件は、新しい現象のわけではない。信頼に付け込む既存の犯罪なのだ。コンピュータのない時代には詐欺は手間がかかったが、コンピュータのおかげで、自動的に多数の被害者を騙すことができるようになった。利益の多くなかった詐欺は、多くの利益をもたらしている。昔からあった犯罪なのに新技術によって、規模が拡大した。

情報の犯罪が広がる理由が様々ある。まず、ソフトの独占が犯罪を助長している。例えば、ウィンドウズが独占しているため、ウィルスを書く人々は一つの基本ソフトを狙うと大半のユーザを攻撃できる。ソフトの多様性を復活させれば、詐欺の件数が減ると思う。

 また、ソフトの安全対策の中で、「闇による安全性」という対策は人気がある。ソフトの仕組みを隠せばウィルスの発生を妨げるという概念だ。残念ながら、効果がない。客のソフトの安全性確認を妨げたり、バグの発見を遅延させたりするので、安全性を確保するどころか、逆に危険にさらしてしまう。

さらに、会社側はソフトの安全性を改善することに消極的だ。損害を受けるのは、ソフトを作った会社ではなく、客なのだ。会社には、評判を損なう恐れがあるが、責任を客に転嫁する手立てがある。例えば、最近のソニーの個人情報流出事件の原因は、客が二つのサービスで、同じパスワードを使ったことだと言われた。パスワードより安全な身分証明方法があるが、その提供を促進するものはない。

最後に、現代人は騙されやすい。インターネット上のサービスを信じすぎてしまう。大勢の人があるサービスを使う場合、伝染のように、誰もがこのサービスを使いたくなる。サービスの利点は目立つが、欠点やリスクを見落としてしまう。新技術を巡る人気のサービスを批判的に見る必要がある。

 新技術の発展とそれに伴う犯罪は、新しくないが、コンピュータのない時代に比べると、規模が違う。ソフトの多様性を復活したり、ソフトの透明性を上げたり、会社のサービス提供責任を高めたり、リスクについて客に考えさせたりすれば、新技術の危険性を減らす仕組みができる。

食中毒の本物のリスク (2011-05-16)

 生肉による食中毒で四人が亡くなったというニュースがきっかけで、他のレストランやスーパの食品について、疑いや不安が広まっている。恐ろしい食中毒事件は現代社会の問題なのか。食中毒のリスクを減らすため、どうすればいいのだろうか。客を安心させるため、どうすればいいのだろうか。

 昔の食料の生産方法は自然に近いため、一見、現代より安全に見える。時には数百人をも冒す食中毒事件は、20世紀以降のものだから。しかし、単なる数の錯覚なのだ。昔から、公表されていない小さな食中毒事件はよく起きていた。現代の食中毒事件は大きいが、めったにない。事件の分布が変わり、一つの事件の影響が広がったのに、事件の数が減ったため、実際には、被害を受ける人の数が減った。現代の食品の生産方法は印象的な事件を起こしているが、本物のリスクは低い。  食品は安全であっても、客の不安は残っている。情報不足の問題がある。安全だと言われても、信じる根拠がないので客は疑っている。時々、事件が起こってから、食品の作り方や材料の生産地を調べるが、問題がないかぎり、詳しい食品の情報は客に伝えない。常に、どんな食品についても、材料の生産地や生産過程について説明すれば、客を安心させられる。生産は客に観察されることで、事件を防げるかもしれない。

 人間は小さな狩猟採集社会に暮らすことによって進化した。そのため、人間は現代の巨大な社会に適応していない。この不適応は、我々のリスク感覚を歪めている。我々は、ある事件をみるとき、本物の危険性だと信じる。小さい社会で直接に事件を目撃する場合には、危険性を計るため効果があるが、現代の社会で、メディアのせいで、一番頻繁に見るリスクは、頻繁なリスクではなく、一番印象的なリスクだ。人々のリスクの感覚を変える必要があると思う。テレビを見るとき、あるリスクについて話がある場合、このリスクを他のリスクと比べれば、危険性の誤解を防げる。  現代の食品の鎖はより安全になったが、安全に見えない。画像を中心とする現代社会にリスクは理解しにくくなった。リスクを数量化したり、比較したりする必要がある。

戦争の掟 (2011-05-09)

オサマ・ビンラディンが殺害されたと聞いたとき、がっかりした。なぜ人を殺す必要があると考えられたのか。テロ組織と戦うため、組織の首謀者の殺害は効果があるのか。戦争を戦っている国の行為に制限はないのか。この事件の必要性と影響を分析したいと思う。 この殺害の理由は、テロ組織との戦いではなく、来年の大統領選挙だったと思う。この選挙に勝つため、オバマ政権は米国民の世界観と調和する必要がある。銃を好んだり死刑を尊重する米国人には、殺害が当たり前な解決だった。

殺害の動機が何であるかにかかわらず、テロ組織への影響はあるかもしれない。しかし、残念ながら、オバマ政権が考える効果がないだろう。まず、テロ事件の脅威は、テロ組織の指導者からではなく、ネットワーク自身から来る。テロ組織は、頭の有無を問わず、攻撃を設計したり実行したりできる。まして、アルカーイダで、後継者を巡る争いが勃発すれば、このテロ組織は活発になる恐れがある。

さらに、アフガニスタン紛争は終わっていない。オバマ政権は、アフガニスタンの政府を無視したため、アフガニスタンで国民の反米感情が高まり、アルカーイダへの援助も高まる恐れがある。ビンラディンが殉教者と見る人々が増える懸念もある。

最後に、イラク戦争やサッダーム・フセインの死刑執行やビンラディンの殺害に伴って、米国の国際的なイメージが悪化しつつある。

戦争と犯罪の境目はボケている。米国のように、国内の状況に基づいて国際的な戦争を戦ったり殺害を謀ったりするのは、逆効果だ。善人も、悪者も人を殺す場合、区別できない。善人と悪者は同じルールが適用されない。米国はテロへの態度を変える必要がある。イラク戦争は教訓になるはずだったのに、米国は何も学ばなかった。避けられる死を防ぐため、テロの脅威について不偏の理解と説明責任は必要だと思う。

現代美術の誤り (2011-05-02)

 抽象的な現代美術を見ると、人々が「分からない」「美術ではない」「子供によって描かれたのか、動物によって描かれたのか」「うちの台所の壁紙に同じシミがある」と言い、混乱している。美術は画家と観察者の対話であるため、抽象的な美術は、失敗にしか見えない。この失敗を分析するため、美術を定義する必要がある。物が美術作品になるため、三つの要素が必要だ。

 まず、美術は画家の表現である。大量生産された作品や自動的に生産された作品は美しくても美術品に見えない。画家が考えずに絵を描き観察者を考えさせるのは、カンニングのようだ。例えば、シミでできているジャクソン・ポロックの作品を見るのは、おもしろいが、単なるロールシャッハ・テストだ。

 さらに、観察者への影響も大切だ。作品は感動させなければ、失敗だ。観察者が絵を見るたびに画家自身想像しなかった新たな光景を想像できるなら、画家にとっては成功だ。「無」を表したい抽象的な画家には、それが難しい。感動させられないことは、画家のせいだけではない。最近、美の鑑賞を無視し、美術は投資の一種になってしまった。アートバブルが膨らんでいるので、崩壊の恐れもある。

 最後に、美術品には構図が大切だ。例えば、イヴ・クラインの「一色のブルー」には、一色しかないため、構造はない。 構造がなければ、豊富な印象を与えられない。単純すぎる作品は美術品にならない。

 美術には、画家の表現と観察者への影響と作品の構造という三つの要素がある。20世紀前半の抽象的な現代美術の誤りは、一つの要素を忘れたり、一つの要素にしかこだわらなかったりすることだった。だが、この三つの要素だけが作品の本質には十分ではない。ある作品を見ると、既存の作品と比較して、どのような点が異なるのかという質問を、作品の価値を理解するために、必要となる斬新さも必要だ。

喋れるコンピュータの三時代 (2011-04-25)

 「2001年宇宙の旅」という映画の中でコンピュータが人間と対話していた。近年の情報技術の進歩のおかげで、このような時代に近づいているが、まだ来ていない。 コンピュータの対話機能の歴史と見込みについて書きたいと思う。

 1960年代に「ELIZA」というコンピュータプログラムが開発された。 プログラムは 人間の話し手の文の構造を分析し、その文に使われている動詞や名詞を使って 質問を作った。人間の話している文が分からない場合、「なぜそう思っているか」「もっと詳しい説明してください」など、話題を広げる一般的な質問をした。 これは、精神分析学者の話し方に近いかもしれないが、コンピュータが知識を持っていないため、単なるトリックだった。

  コンピュータを話しをさせるためには知識や常識を集約する必要がある。情報は本やインターネットの中にあるので、 情報を得るのは一見簡単な作業に見える。 だが、実際には、人間の言語の文法に例外があるため、コンピュータには理解しにくい。また、語も、曖昧で様々な意味を持っているので、適当な意味を選択するのは、難しいのだ。一番難しいのは、代名詞のように文脈によって意味が変わる言葉だ。40年以上の時が過ぎたが、本やインターネットから自動的に情報を抽出する試みは成功しなかった。

  最近、情報を正確に理解する必要はないことは分かってきた。 人間の場合にも、知識や質問に曖昧さが残っても、質問に答えられる場合が多い。 コンピュータは、新しい文を読むとき、正しく分かるかどうかを考えずにその文の複数の意味を見つけ、その複数の意味に確率を与える。質問に答えるとき、コンピュータは得た知識を探索し、 複数の答えを見つけ、確率の一番高い答えを選ぶ。完璧ではないが、この仕組みを使って、より人間っぽい探索エンジンを作ることができる。

 喋れるコンピュータの時代が来るが、 コンピュータが本当に考えるかどうかという疑問が残っている。考える能力を定義するのは非常に難しい。「チューリング・テスト」で人間が相手とコンピュータを識別できないとすれば、コンピュータが考えないと言えなくなる。考えられるコンピュータを作るため、知識は十分ではない。常識も、意識も、独自性も必要だ。 喋れるコンピュータは近い将来実現するだろうが、考えられるコンピュータが登場する日はまだ遠い。

歴史の役割 (2011-04-18)

 学校で学んだ歴史は、日常生活に役に立たないと思っている人が多いが、そうではないと思う。現代の世界を理解するため、昔の状況からはどのような教訓を得られるのか、それについて考えてみたい。

 まず、例えば政治の世界を理解するためには、 国々の近年の状況だけ考慮するのでは、 十分ではない。 なぜならば、国の数は多いが、相互に関係があるため、それぞれの状況はよく似ているからだ。他の文明の歴史を見ることは視野を広げ、時間を越えた現代世界の外の経験を提供する。政治家たちは 現状を昔の状況と比べることによって 昔の失敗を繰り返すことが避けられる。

 さらに、歴史は我々に謙遜することを教えている。現状しか見なければ、現状の状況について様々な勘違いをしがちだ。現状は特別でもなく新しくもないと認識する必要がある。歴史は方向性を持つため、失敗をしても進歩が減速し、逆進する可能性はないという誤解がある。例えば、ミノア文明は19世紀とほぼ同じ技術を持っていたが、火山と津波によって破壊されてしまった。我々は、祖先より優秀ではない。その事実を忘れれば、過去の失敗を繰り返す恐れがある。 歴史を学ぶと現状が安定して望ましくない歴史の回帰を防ぐことができる。

 歴史は教訓を伝えるが、危険な側面もある。例えば、政治家たちが決定をするために今の状況と昔の状況を比べるとき、状況は似ていても、まったく同じではない。この差異を忘れれば、不適当な決定をする恐れがある。問題に直面する際、 この差異を見落とし、歴史上効果があった解決策を使い、 失敗を招いた例はいくつもある。歴史は慎重に利用する必要がある。

回復力 (2011-04-11)

 歴史的に見ると 戦争や飢饉などの災害が相次いで起きているため、我々はこの状況に慣れているはずだ。それにもかかわらず、実際にはそうではない。 災害への「予防対策」があっても、「対処対策」がないので、 災害が起きるたびに、災害の回復において被災者は困難に直面する。回復力の高い人や組織もあるが、それはまれなことだ。 この回復力の源を分析し、 提案したいと思う。

 現代の社会が人々を守りながら我々を災害から遠ざけようとするため、我々の世界観は歪んでしまう。現代人は本物の災害を経験していないし、 祖先の災害の記憶も失ってしまった。世界は安全になったという妄想を持ち、 起きてもいない災害を恐れたり、これから 起きる災害を忘れてしまったりする。 例えば、ハリケーン・カトリーナの時、 米国がテロ事件の防止対策に夢中になったが、 テロ事件への対処対策がなかった。 このような対策があったら、ハリケーンにも応用でき、援助活動がより早く進んだ。 予防だけに関する 災害対策を決定すれば、 惨事がくるとき、世界観が崩れてしまい、人々がパニックになったり、効率的に行動できなったりする。 災害の存在と災害を完璧にあらかじめ防げない事実 を認識する必要がある。

 災害に対処するため、心理的な仕組みがある。 客観的に、災害が起こってから、叫んだり鬱病になったりすることは事態の解決のために効果がなく、生き続けるしかしようがない。だが、極端な感情が活動を妨げる。感情の時と活動の時を完全に分離できれば、惨事を乗り越えることができる。 無情にみえるが、宗教などの社会的な組織はこのような役割を果たしている。災害でものごとを考えことできなくなったとき、やらなければならないことを、命令として、伝えるからだ。

 災害がきたとき、混乱することは当然であるが、試練を乗り越えるためには、効果がない。生き抜くため、あらかじめ考えられた対策が復興を早期に進める。さらに、感情に妨害されないように、前向きな態度も大切だ。

発電の将来 (2011-04-04)

 現代の社会には、電力が不可欠だ。それにもかかわらず、二酸化炭素の排出による地球温暖化や 原子力発電所の事故や電力系統の非効率など、発電を巡る問題が数多くある。 電気の安全性や需給不均衡を改善するため、 どうすればいいのだろうか。

 これらの問題の原因はエネルギ源自身に潜んでいる。 石油が燃える時、二酸化炭素が排出されることや 原子力発電所が放射性廃棄物を作り出すことは 不可避だからだ。風力や太陽エネルギーやバイオマスなどの新エネルギーが 化石燃料や原子力を代替できると期待されているが、 無理だ。 例えば、腐っている野菜の熱を使うことによって、温室を温めることができるが、 エネルギー量は少ない。 新エネルギーはニッチ市場のニーズに応えられるが、従来のエネルギ源を完全に代替できない。 残念ながら、 近未来においても化石燃料と原子力は我々の主なエネルギー源である。

 現代の原子力は核分裂反応に基づく。ウランなどの重い原子が分裂する時、熱が出てくる。だが、他の原子力発電方法がある。 水素などの軽い原子が融合する時、熱も出てくる。現代の原子力発電と違い、 放射性廃棄物を発生しないし、燃料を爆弾に転用される恐れもない。実現には 問題が一つある。 太陽より十倍の温度が必要なため、核融合原子力発電所を作ることがまだできないのだ。 数十年がかかるが、従来のエネルギー源を代替できる可能性がある。

 我々の暮らし方を守るために、 原子力発電所の安全性を高めたり 化石燃料の二酸化炭素の排出を削減したりする必要があるが、完璧な解決ではない。 電気需要の変動に応えられるが、電気需要の増加に応えられない。将来のため、大量の電気を生み出す核融合のようなエネルギーの生成技術を発展する必要もあると思う。

危機と報道 (2011-03-28)

 世界中で、福島第一原子力発電所の事故が注目を集めている。 それなのに、詳しい情報が民衆にほとんど届いていない。情報不足のため、政府を疑って 人々に不安が広がっている。不要な不安を生まないようには、どうすればいいのだろうか。

 まず、政府にも、情報収集能力不足の問題がある。状況を知るため、発電所の外側に、様々な検出器が設置してあるが、発電所の敷地内に関しては状況を知るため、建屋の破壊や停電のせいで、情報を得られない。監視ロボットがあれば、 放射線の有無にかかわらず、詳しく状況を調べたりできる。多目的のロボットであれば、監視だけでなく、ケーブルの敷設などの 簡単な作業もできるはずだ。残念ながら、そこまで後世のロボットはまだ存在していない。

 さらに、その不十分な情報から 政府やメディアは民衆に伝える情報を一方的に選んで、公表する。 その結果、民衆が受ける情報が部分的になってしまう。だが、次の情報が来なければ、 正常なのか、 異常なのにパニックを防ぐため公表できないのか、人々が疑って不安になる。 その上、東京電力と政府機関以外、情報源がない。信頼を取り戻すため、未公開のデータの公表や第三者機関による調査が 必要だと思う。

 メディアの役割は情報を集めたり分かりやすく伝えたりすることだが、 現在、同じ情報をほとんど永遠に繰り返しているため、心配やストレスにつながっている。 業界でよく使われている「ダッシュボード」という概念を使えば、報道の効果が上がると思う。 「ダッシュボード」というのは、 一ページで図を使って徹底的に現状や業績や見込みを表現することだ。インターネット上で 発電所の事故についてのダッシュボードが現れたが、情報不足のせいで一面からしか事故を分析していない。より徹底的なダッシュボードが望ましい。

 危機の時、報道は難しい。 人々の信頼を築くため、 情報源を増やしたり、情報を継続的に伝えたり、 情報を簡単にまとめたりする必要がある。そうしなければ、不要な不安を生み出すに違いない。

アップルの戦略 (2011-03-14)

 15年前、アップルが マイクロソフトとの競争に負ける危機があったが、 音楽プレーヤーや携帯電話やタブレットPCなどのおかげで、危機を脱した。しかし、その裏にはアップルのずる賢い戦略であったのだ。

 まず、効率的に収入を得るため、アップルは顧客の行動やチョイスを制限した。例えば、アップルの同意がなければ、他社のソフトをインストールできない。 大量生産のような仕組みだが、供給の面ではなく、需要をコントロールして、 大量消費を生み出せる仕組みだ。消費者の行動を管理しているようにも見える。この戦略は、完全に市場を独占の場合は、簡単だが、 そうでなければ、ニッチ市場で独占を作らなければならない。そのため、アップルは手品のようなトリックを使った。商品の優れた点に客の注意を引きつけながら、欠点に気づかせないようにした。商品の美しさや使いやすさに取られて、誰も選択の自由が奪われたということに気づかなかった。  さらに、アップルの商品は 斬新に見えるが、実は、革新的ではない。例えば、タブレットPCの市場は、既に存在していたが、コンピュータ市場に分かれたので、コンピュータの進化に追いつけなくて、技術的に十年以上遅れた。まるで、80年代のソフトと90年代のハードウェアのようだった。 アップルはコンピュータ市場の技術を駆使することによって、タブレットPCの市場を席巻できたにすぎない。

 アップルストアも、目新しくないアイディアだった。二十年前、よく似ている「リナックスディストリビューション」の概念が現れた。 様々な便利なソフトを一つのウェブサイトからインストールできる仕組みだ。またウィンドウズの世界では、ユーザーが新しいソフトをインストールしたい場合、 ソフトのサイトを探したり、サイトの信憑性を確認したり、 ダウンロードリンクをそ探したり、 インストールの質問に答えたりする必要があるため、非常に複雑な過程だ。 十年前、マイクロソフトは「マイクロソフトストア」を作ろうとしたが、独占禁止法のため、この計画を実行できなかった。それなのにアップルは同じアイディアを使うことができた。

 アップルがタブレットPCの市場を発展させたため、客のニーズに応える企業に見えるが、市場を独占しつつあるので、 危険である。一時的にある市場を発展させるために、 独占は悪くないが、長く続けば、ユーザーの自由を奪う恐れがある。アップルは、ハードウェアの独占によって、OSも、ユーザーが買えるソフトも、ユーザーが聞く音楽も 制御している。アップルのこうした戦略は、ユーザーの利益につながらないため、アップルの独占を廃止する必要があると思う。

動物園の在り方 (2011-03-07)

子供の時、初めて自然史博物館へ行った時、驚いた。生命の博物館どころか、まるで死体の展覧会のようだったからだ。 科学者が動植物についての情報を集める場所と聞いていたが、死体しかなかったので、 怪しいと思った。現代の動物園は、生きてはいるが、不自然に閉じ込められた動物がいる点で、よく似ている。動物園はどのような役割を果たしているのか。本当に 存在すべきなのか。 まず、動物園は入園者に動物の多様性を教えたり非日常の世界を体験させたりしてきた。 だが、現在、正確な情報を求めて、人々は図書館やインターネットを利用する。自然の世界での 動物の生活の厳しさを知りたければ、テレビを見る。動物園は野性動物が実在する証拠としては効果があるが、昔と違い、情報の源ではなくなった。 時代遅れの施設だ。

動物園は動物の生命や生物多様性を保存しようとしているが、 多くの絶滅危惧種は、動物園にしか生き残っておらず、単なる執行猶予死刑状態だ。自然繁殖できる環境ではないからだ。 ある動物の種が動物園にしか残っていなければ、 消えざるをえない。このように種の保存の使命にも失敗している。

動物園は、教育と保存の二つの役割を果たしていない上、動物の飼い方にも問題がある。広い縄張りを持つはずの動物が檻の中で行ったり来たりするのを見るのは、辛い。そのような残酷な扱い方は動物に精神的なダメージを与えている。

こうした問題点の解決方法を提案したいと思う。まず、教育の役割を改善するため、珍しい動物の代わりに、牛や馬など、身近な動物を使って、 入園者と動物が触れ合えるようにすれば、人と動物の絆が深まるはずだ。

 次に、 保存の役割の改善だが不可能かもしれない。なぜなら、効果的に種を守るため、多数の同じ種の動物が必要だからだ。多様な動物を少しずつ展示する動物園の使命と矛盾している。例えば、動物園ではなく、その種専門の飼育センターに任せるべきだ。。

 最後に動物への残酷的な扱い方を防ぐため、 サファリパークのような広い敷地が必要だ。都内の動物園には無理に違いない。田舎で自然の環境の中で野生動物を展示するのがいいと思う。

 そのように、この三つの使命を果たすため、今の動物園を三つの施設に分ける必要がある。動物園の在り方を変えるべきだと思う。

民主主義の罠 (2011-02-28)

 世界中、様々な政治体制があるが、 民主主義の志向が加速している。自由を尊重する点で、 民主主義が望ましいと思うが、 完璧ではない。まして、民主主義が完璧だという考え、 すなわち「民主主義至上主義」は、 権威主義につながる危険がある。 民主主義の欠点を分析したいと思う。

 まず、現代の民主主義は、 過半数に基づく。 そのため、少数派の声を聞く必要がない。例えば、ヒトラーは、自分に 敵対するユダヤ人少数派を抑えて、 当選した。民主主義が完璧だと思う人は、少数派が過半数の意見に異議を唱える権利を認めないため、民主主義が「多数派の独裁」になる恐れがある。 少数派の権利を守る必要がある。

 さらに、民主主義では、 政府の決定が、国会審議によって決められる。その結果、国会審議を妨害すれば、少数派が政府の機能を止めることができる。 少数派を尊重する仕組みだと思われるが、 新しい提案をするのではなく、ただ審議を止めることが目的なので子供じみている。特に、米国の「フィリバスター」を巡って、議論が続いている。そのような行為を防ぐため、古代ローマ時代には、緊急事態を乗り切るため、政治体制を独裁にできるという仕組みがあった。危険過ぎるが、審議を無意味にする政治家を抑えなければ、民主主義が歪む。

 最後に、民主主義の一番重要な問題は、 政治家と民衆の関係だ。 民主主義は、民衆が決定権を持つ政治体制と考えられるが、むしる決定権を持つのは政治家たちだ。つまり、現代の民主主義は間接的な民主主義だ。 民主主義であっても、 政治家の動機が純粋なわけではない。 麻薬のように権力に依存してしまう 政治家は少なくない。このような政治家から民主主義を守る仕組みがほとんどないので、 注意が必要だ。

 世界にはまだ非民主主義国が残っており、自由や民主主義への流れが続くべきだが、最優先にすべき変化なわけではない。 平和や自由な教育など、様々な前提条件がなければ、 独裁に陥る可能性がある。 この危険は既存の民主主義国も冒してしまう恐れがある。一見民主主義体制に見えても非民主主義的な要素が勝っていることがある。完璧な民主主義はありえない。

数学への態度 (2011-02-21)

 世界中で、子供に一番憎まれる学科は、数学である。 算数以外、日常生活に役に立たないように見えるが、そうではない。数学の必要性や憎しみの原因を分析したいと思う。

 デジタル社会の現代には、携帯電話や映画など、 我々の日常生活のどんな面にも、数学が潜んでいる。それなのに、 一般の人は、日常生活に数学が必要ではないと考えている。この考えは、間違っていると思う。まず、これは、鶏と卵の関係と同じである。 数学嫌いな人は数学が不要な生活に自ずから向かう。 数学のない生活を送っているからこそ、ますます数学が必要ではなくなる。さらに、数学が分からないと思う人々は、情報に騙されやすい。この人たちは、ニュースで数字を聞くと、「数字は数学のものだ。数学は事実だ。すなわち、数字は事実を表す。」 と判断する。政策の効果を納得させたい政治家や、名目利子と実質利子の混同によって客を騙したい銀行など、 例がたくさんある。

 どうしてこんな状況に至ったのか。なぜ、学校は数学の教育に失敗しているのか。数学の有用性を教えるため、どうすればいいのだろうか。 この問題の根は、役に立たない内容である。 学校で教えられる数学は、古すぎる。 例えば、原因と結果の区別を教えるため、教師が幾何学の証明を使っている。だが、幾何学の場合には、原因も結果も時間の外にあるし、結果は図を見ればすぐ分かるため証明の必要性が分かりにくいし、 生徒達は、いつも混乱してしまう。 幾何学の代わりに、「グラフ理論」を使えば、 証明は 図に見える事実から図に見える事実への道筋ではなくて、 分かっている事実からまだ分からない事実への道筋だ。こうすれば、 生徒の混乱が減るはずだ。

 カリキュラムを変えられたとしても、 子供にしか影響を与えない。 大人の数学への態度も変える必要がある。日常生活に現れる数学を紹介しているイアン・スチュアートや、数学的なゲームを分析しているマーティン・ガードナーなどの通俗科学者は、サンデルが作った政治哲学のブームのように、 数学のブームを作れる可能性がある。 数学のイメージを変えなければ情報社会が生き地獄になる恐れがある。

公共放送の茨道 (2011-02-07)

 デジタル情報化社会の到来によって、テレビの代わりにインターネットを見て、公共放送を払うのはばかばかしいと思っている人が増えている。公共放送の必要性や財源の獲得方法や内容の質と多様性について書きたい。

 まず、公共放送の役割が変化している。かつて、文化や知識を手に入れるため、図書館やテレビは不可欠だった。だが、現在の情報時代では、インターネットが同じ役割を果たしている。質や信用性の問題が残っているが、インターネットの情報だけを便りにする人が増えており、テレビと競争している。情報の源として、公共放送の必要性は下がっている。

 しかし、公共放送は、その国の国際的なイメージを作っている。例えば、歴史的に見て、BBCは信頼できる情報の源として知られている。つまり、BBCのおかげで、イギリスのイメージがよくなった。情報化時代だからこそ、国際的なイメージを維持するため、メディアの持つ影響力は大きい。政治家の発言と違って、メディアは人々に長期間なインパクトを与えられる。その視点から見れば、公共放送はより重要である。

 このように、公共放送の役割が変わっているが、その財源を確保にはどうすればいいのだろうか。現在、税金のように、ほとんどの国民が受信料を払うのは、不平等だと思う人がいる。本当に公共放送を見る人だけを払わせるのが、望ましいと考えるが、政府によって無駄である。なぜかというと、誰がどんなチャンネルを見るかを確かめるのは難しいし、お金もかかる。例えば、このようなシステムを使っているフランスでは、受信料の半分は、受信料の徴収のため使われている。税金の一部にすれば、受信料が安くできる。

 最後に、インターネットとの競争に勝つためには、コストの問題ばかりではなく、内容と質を重視する姿勢を貫くべきである。新しい番組の素材を探す必要がある。例えば、大学の講座や、「デモクラシー・ナウ!」のような情報番組、「TEDカンファレンス」のような発表会なども、テレビ番組になる可能性がある。

 インターネットとの競争のため、公共放送の未来は暗く見えるが、インターネットを味方につければ、生き残れる希望がある。

本の変化 (2011-01-27)

 いい商品とは何だろうか。僕にとっては、創造者が考えていなかった用途を生み、創造者の期待を上回れる商品である。この定義を使って、紙の本と電子書籍を比べたい。我々は本を楽しむ時、読む以外に、何ができるのだろうか。読後、要約や批評を書いたり、続編やパロディーを執筆したりできる。電子書籍の場合には一冊だけでなくて、数億冊を一緒にデジタル処理できるので、様々な可能性が広がる。例えば、索引できるが、図書館の索引と違い、題名だけでなく、どんな本のどんな言葉でも索引を作れる。その結果、読者の質問の答えを含む本を指示するだけでなく、答え自体を出せる可能性がある。最近注目を集めたグーグルの「N-grams」という索引の一種は、セマンティック・ウェブ、すなわちコンピュータがウェブの情報を把握してユーザの質問に答えたりできる世界への一歩である。

 電子書籍が紙の本への威嚇だと思う人が多いが、間違った考えだと思う。まず、電子書籍は、紙の本や書店と直接競争していないが、オンラインショップと競争している。むろん、オンラインショップは書店と競争しているため、電子書籍は書店にとってあまり嬉しくないが新しい威嚇ではない。さらに、電子書籍がコピーできる機能は、世間の人が考えられているほど著作権への威嚇ではない。なぜならば、図書館の本を読むのと、電子書籍をコピーして読むのは同じだからだ。だが、いくらコピーができるので、著作権の問題が残っている。音楽産業の失敗を繰り替えさないように新しい仕組みを考えるべきだ。例えば、税金のように、毎月決められた金額を払わせて、読まれた分だけ、作家に金額を分配するという仕組みは、効果があるはずだ。

 書籍の市場が変わりつつあるが、電子書籍に限られていない。本とテレビとソフトなどの境界がぼやけており、こうした従来の商品と商品の間から新しい商品が現れている。大学の講座やオーディオブックやラジオドラマやフリーペーパーなどが、紙の本と競争している。だが、重要なのは、器ではなく、内容だ。紙であれ、電子であれ、本の形は変わらない。

世界政府への道 (2011-01-13)

 世界中に、紛争や環境破壊などの国際的な問題がある。このような問題が一つの国に限られていれば、解決可能だが、複数の国が巻き込まれているため、交渉や解決が困難である。世界が一つの国であれば、すなわち世界政府があれば、そのような問題を解決できるはずだ。この政府を作るため、どうすればいいのだろうか。なぜ世界政府はまだないのか。

 歴史上、様々な世界政府の試みがあったが、いつも失敗に終わった。例えば、大ローマ帝国が大きすぎて、コミュニケーションができなくなったため、分裂してしまった。国連も、権限を持たないため、重要な問題を解決できない。この失敗には、三つの原因がある。

 まず、これらの世界政府の試みの参加者が国だけだ。だが、国際的な問題に興味を持つ組織は、国だけではなく、会社も、非営利団体もある。こうした国連は、重要な関係者を忘れ、問題を巡る意見や解決の提案は充分になされていない。

 さらに、国連は、問題が出現するまで何もしない。問題が現れてから解決する組織より、問題を予防できる組織が望ましい。世界政府は問題を先取りすべきだ。

 最後、国々と国連の関係は、人々と自国の関係と同じではない。例えば国は、民間の平和を守るため、法律や警察や罰金や刑務所など、様々な手段を使っている。直接的な手法だけではなく、税金や選挙などによる、国民と自国のコミュニケーション手法もある。例えば、政府が税金を使って、望ましい行為を奨励ましたり、望ましくない行為を制限したりできる。しかし、今の国連は、こうした手段を欠くため、機能していない。

 過去の失敗を繰り返さないように注意して、世界政府を現実化できれば、地球の問題を、より効果的に、解決できるはずだ。数世紀がかかるかもしれないが、世界政府へ進めると思う。

忘れられた市場 (2010-12-27)

 金融危機が終わり、消費は回復したと思う人が多いが、危機は本当に去ったのだろうか。需要面の問題は解決されたが、供給面には問題がある。企業が気づいていない市場が残っているからだ。 このような潜在的な市場の例や特徴について書こうと思う。

 最近、貧困層(BoP)が注目を集めている。マイクロクレジットや1000ドルの車など、 相次いで、新しい市場が現れている。この市場は昔からあったが、誰も気づかなかったので、消費者の需要が満たされてこなかった。潜在的な市場だった。マーケティングの講座で、既存の商品のため、新しい市場を探すべきだ と言われるが、その逆も効果がある。つまり、誰も気づいていない市場を探し、その市場に合った新しい商品を考えることだ。

 未熟な市場なので、競争が少なくて、利益率が高い。成熟した市場は数少ない大手企業に独占されているため、新しくて小さい会社が参入できない。 小さくて未熟な市場でなら、小さい会社が生き残ることができる。 さらに、ニッチ市場で発展した会社は、大きくなってから、成熟した市場でも大手企業と競争できる。 例えば、グーグルはインターネット検索のニッチ市場で発展してから、マイクロソフトなどの大手ソフト企業と競争している。

 一方、ニッチ市場には、デメリットもある。まず、小さすぎるため、大量生産があまりできない。だが、一般的な商品を複数のニッチ市場に調整できれば、 コストが下がるはずだ。 さらに、貧困層の場合には、消費者が貧しい。利益率が高くても、利益が低い恐れがある。 だが、消費人口が多ければ、総利益が高くなるはずだ。

 一番難しい問題はこのニッチ市場を発見することだ。 発見した後、当たり前のように思えるのだが、気づくのは難しい。例えば、市場の条件や商品の制約のせいで、消費者の満たされていないニーズを発見できれば、潜在的な市場になる可能性がある。 インターネットで音楽を買ったり聞いたりするのは、その一例だった。 さらに、社会的な変化が潜在的な市場を明らかにしている。例えば、高齢化のおかげで、介護が儲けになる市場と見られている。

 金融危機が終わったが、経済は完全回復した わけではない。消費者の少ない市場や消費者の貧しい市場のように、忘れられた市場が残っている。競争が少ないため、利益や発展の機会が豊富にある。 次の潜在的な市場は、どこに現れるのだろうか、誰に発見されるのだろうか。

学究的世界の惰性 (2010-11-29)

 奴隷制度の廃止をはじめ、数百年前から、平等への動きが続いている。例えば、50年前、婦人参政権が実現し、さらに、最近、セクハラという問題の解決に向けた戦いが続いている。だが、この動きに逆行する組織がある。アカデミック・ハラスメント(アカハラ)という嫌がらせの行為がなくならない学究的世界はその一例である。なぜなのだろうか。

 他の社会的な階層組織に比べると、学究的世界には、学生と教師の二つのレベルしかない。他の組織では複数のレベルがお互いに見守っているため、権力乱用の危険があまりない。しかし、大学には見守りのシステムがない。外からの監視が必要だと思う。

 学究的世界の構造は、普通の会社と違う。研究者の将来が学生の時の選択で決まる。問題があれば、転職したくても、他の大学に行けずに、学究的世界を出ざるをえない。学問の世界は狭すぎる。

 問題点は、狭さだけではない。学究的世界は不透明だ。一般社会から隔離された社会なので、独自のルールしか認めない。例えば、罪を犯す人々と調査をする人々と処分を決める人々が同じだ。隠蔽工作の可能性も高い。外からの監督が必要だ。

 今すぐアカハラの問題を解決するため、大学の権利を外から監督する必要がある。それだけではなく、研究者を辞めさせたり、未来を妨げたりする構造的な問題の解決がより大切だ。この教師と学生の支配関係を改善し、民主主義のように学生も含め様々な種類の人々を運営に参加させることが望ましいと思う。

 

日本はもう鎖国になったのか (2010-11-22)

 最近、TPPやAPECなど、様々な自由貿易協定が現れつつあるが、反対の声も聞こえている。自由貿易のメリットや関税のデメリット、反対声を和らげる方法、ニュースであまり討論されていない問題を紹介したいと思う。

 歴史上、貿易の自由化と経済成長は同時に起きる傾向がある。なぜならば、ある国が関税を撤廃すれば、国際的な競争によって発展や進歩させられるさらに、日本の場合には、社会の高齢化による国内の消費の減少のせいで、貿易の自由化は、より重要になった。輸出を拡大できなければ、少子化による内需縮小によって、生産を減らしたり、工場を閉鎖したりせざるを得ないからだ。

 日本の貿易自由化を反対する農業団体は、国の食の安全や農民の生活を守りたいと訴えながら、短期間の私利しか図らない。貿易の鎖国化の代わりに、食品の生産地や質を伝えるラベルを義務化すれば、消費者が確認でき、地元の食品が高くても売れるはずだと思う。世界中で人気を集めている有機農産物、この一例である。貿易自由化は他国にまだ知られていない伝統的な食品を売る機会にもなる。

 貿易自由化が必要だが、二つの問題が残っている。

 まず、自由貿易協定の数が増えてきた。大きな協定は、参加国の意見が一致した場合しか認められず、貿易の自由化を実行できない。これに気づいてから、国々は小規模の協定を締結してきた。それらの複数の協定から選ぶのは、煩雑だ。

 さらに、日本には、大きな心理的な関税障壁がある。日本は食品を輸入したり、電気製品を輸出したりしているので、鎖国と見えない。だが、輸入される食品とはいえ、実は、国際的な食品ではなく、日本市場向けに作られた食品しかない。電気製品も、日本では、ほとんど日本のブランドしか買えない。自国製品に対する過度な誇りがこんな現象を生んでいる。心理的な関税障壁を破るのは、難しい。

 日本の産業は社会の高齢化による消費の減少を乗り越えるため、途上国に負けないように、貿易自由化が必要だ。そのため、農業などの圧力団体を納得させたり、国内の生産を守る仕組みを考えたり、自由貿易協定作りに積極に入ったりする必要がある。最後に、心理的な関税障壁を破る必要もあると思う。

情報時代の国家機密 (2010-11-15)

 中国漁船衝突事件のビデオがユーチューブに漏れてしまった。政府がビデオを見たい国民に応えるべきか、きちんと情報を管理すべきか、という議論がある。情報公開が望ましいが、意図的に漏らされる情報をめぐって、さまざまな問題が起きる。情報公開の必要性や危険性や予防策を紹介したいと思う。

 情報時代では、機密を守りにくくなった。国民は政治家の決断を知り政治家を制御したいので、情報を隠す政府は有権者の信頼を失い、選挙に負けてしまうはずだからだ。さらに、マーフィーの法則によると、情報は結局漏れてしまうが、タイミングや内容をコントロールできないので、その場合、より悪影響を及ぼす可能性もある。

 「ウィキリークス」という組織は機密情報の公開を代行している。機密を漏らしたい人から情報を受け取ってから、公開する前に、情報の信憑性を確認したり、情報の中の個人情報を隠したりしてくれるので、安全だと考えられているが、いいことばかりのわけではない。例えば、個人情報を全部隠さないで情報を漏らす例がある。この間違いは、プライバシーの侵害につながる。さらに、早く情報を公開したいと思うあまり十分確認しなければ、偽情報や名誉毀損の恐れもある。

 中国漁船衝突事件の場合は、どうすればいいのだろうか。中国を怒らせずに国民に情報を伝えるのは難しくなかった。事件発生直後、中国はすでに怒っていたので、すぐにビデオを公開しても、何も変わらなかっただろう。  情報時代だからこそ、情報の公開や流通を制御できない。 権利を持つ人たちは、このデジタル社会の変化を認めて、昔のように機密を守ることができる幻想を捨て、情報を公開すべきだ。

人造ゴーストライター (2010-11-08)

 現代の学生は、図書館だけでなく、インターネットでも、情報を見つけることができる。便利だが、新技術によるカンニングの方法も現れた。例えば、ウィキペディアの記事を組み合わせることによとって、自分で一文も書かずに、作文を完成できる。新しい技術だが、本当に新しい現象なのだろうか。この新カンニングとどう戦えばいいのだろうか。新カンニングをした学生は卒業してからも、このカンニングの行為を続けるのだろうか。

 自分で書かないレポートを提出するカンニングは、新しい現象ではない。例えば、40年前出版されたロバート・シルヴァーバーグの「内死」という小説では、主人公がお金持ちの学生の代わりに作文を書いている。この「ゴーストライター」という仕事は、大学に限られていない。フランスでは、昔から、芸能人や政治家などの有名人が本を書きたい場合、自分で書かずに、ゴーストライターを雇っている。売上のため、出版された本で、むろん有名人の名前しかない。

 カンニングの方法が増えるとともに、カンニングと戦う方法も増えている。技術的な戦い方がある。例えば、ゲノムやウェブから情報を抽出するアルゴリズムを使って、論文とウィキぺディアを比較し、コピペを発見できる。心理的な戦い方もある。例えば、捕まるリスクが高すぎると学生に分からせれば、効果があるかもしれない。カンニングができない試験を考えるなど、教育学的な戦い方もある。

 インターネットの情報は豊富になっているので、コピペの現象も普及するに違いないが、悪いことばかりではない。例えば、研究者が、無数の研究論文の中から情報を探す場合、論文の代わりに要約を読んだ方がよい。論文の中身から自動的に要約を書くアルゴリズム、つまり学生不要のコピペも可能になった。

 試験のカンニングや盗用は長い歴史を持っているが、ネットを使ったコピペ現象はますます普及している。戦う方法があるが、完璧ではない。他の分野にも広がっているので、何かを読むとき、情報の源に注意する必要があると思う。

ストライキの精神 (2010-11-01)

 フランスでは、ほとんど毎年、国の経済機能を麻痺させるほど大規模なストライキが行われている。この現象の理由やフランスの特徴について書きたいと思う。

 フランス人の精神で重要な要素は、議論や戦いへの欲望である。政治に反対する人が多いが、この抗議の対象は何かというのは大切ではない。便宜上、何かを抗議の対象にしているだけで、フランス人の抗議は観念的な抗議だと言える。ストやデモだけでなく、選挙もその例である。どんな問題について聞かれても、有権者は、その問題に対してではなくて「政治そのものに賛成かどうか」という立場から答える。すなわち、選挙は抗議の程度を表す一つの機会である。

 さらに、フランス人は過去を理想化しており、変化や改革に反対している。ストやデモは消極性に基づいた活動的な欲望だと言える。改革の必要性さを分かっていても、反対し続けている。理想的な世界にはそんな改革が不要なので、理想的な世界にいる夢を見続けるため、改革を拒否しているのかもしれない。

 フランスでは、共産主義が死ななかった。その結果、どんな問題があっても、富裕層のせいだと考える人が多い。フランス人は平等を好むが、不平等の問題が現れた場合、上しか見ない、つまりいい位置にいる人のせいだとしか考えない。だから、ストやデモの本物の原因と解決を考えずに、富裕層を集中攻撃している。

 毎年のように発生しているフランスのストライキは抗議の精神や後ろ向きな態度や共産主義の伝染の結果である。現代の加速している国際的な変化の世界では、他国に笑われないようにフランス人が大人らしく責任がある態度を取る必要がある。

博物館学の発展へ (2010-10-25)

博物館は二つの役割を果たしている。現代の世代のため物を展示することと、将来の世代のため物を保存することである。 だが、作品が展示されれば、人々による光やほこりや汗や熱のせいで悪影響を受けてしまい、保存が妨げられる。この矛盾を乗り越えるため、どうすればいいのだろうか。保存すべき物が損傷された場合には戻すことができないので、一番大切なのは、保存だ。保存方法を見つけた上で、大勢の人に展示することが望ましい。

この問題は普通のマーケティングの問題によく似ている。マーケティングでは、ある商品の売上を伸ばすため、この商品の新しい使い方を考えることが効果があると言われている。博物館にも、入館者の数を増加させるため、新しい展示方法や鑑賞方法を考えることが効果があるはずだ。

例えば、入館料を上げたり、入館者の割り当てを決めたり、開館時間を延長したりすれば、入館者の数を調節できる。精密機械工場のように入館者にマスクやスーツを着せれば、入館者の数を減少させずに傷みを防ぐことができる。 入館者を参加させ、実験考古学者のように作品を再現させれば、作品をより深く理解したり、鑑賞したりして、満足感を高めることができる。そのことによって、さらに作品を楽しむ人の数が増えるし、作品を大事にする人の数も増える。

入館者の悪影響を防いだり、新たな鑑賞方法を考えたりできれば、冒頭で述べた博物館の二つの役割の矛盾を十分に解決することができると思う。

絶滅危惧の社会的動物 (2010-10-14)

絶滅危惧の社会的動物 (2010-10-07)

 五年前、イタリアへの旅行中に、ホテルを探していたとき、デモに出会った。「ファシズム」と書かれた横断幕を見た。第二次大戦が終わったのに、極右運動がまだ活動しており、驚いたし怖かった。実は、イタリアだけでなく、欧州中、極右の支持が拡大している。なぜ、そんなに広がるのだろうか。この台頭を止めることができるのだろうか。

 人間は、社会的動物である。社会の中で人間同士と一緒に暮らすことを好む。だが、産業革命以来、この結ばれた社会が、段階的に衰退してきた。例えば、家族が核家族に変化したり、ひきこもりが増えたりした。それと、誰もが誰もを知っている小さい村が、誰もが誰もを知らない大きな町に変化した。この絆の少ない社会を直すため、人々が、必死に、絆や共同体の再生を試みている。極右の演説には、このような試みが現れている。

 戦争の時、人々は、敵を倒すためなら、考えずに、団結することが、よく知られている。戦争や敵が存在しなければ、その代わりに、極右が敵を創造することができる。失業などの社会的な問題、すなわち原因を見つけにくい問題があれば、敵を作りやすくなる。見た目も、喋り方も、価値も違う外国人は、身代わりにされやすい。この台詞を言う極右派が人気を集めてきている。

 極右の台頭が恐ろしいが、希望の灯りがある。この状態の本物の原因は社会の絆の衰退である。この衰えていく絆を再生できれば、極右派を抑えることができる。インターネット上の共同体やソーシャルメディアの普及がこの役割を果たして絆の絶滅を防ぐことができる可能性がある。

生物多様性の価値 (2010-09-27)

 生物多様性を守すべきだと思っている人も、生物多様性の保護が産業発展を妨げると思っている人もいるが、生物多様性も産業発展も望ましい。この両方の欲求を満たすため、どうすればいいのか。  二酸化炭素を排出する会社が、グリーンなイメージを作るため、排出を補うように木を植える「カーボンオフセット」という仕組みがある。生物多様性を守るため、それとよく似た「生物多様性オフセット」という仕組みが考えられている。この仕組みによって、ある会社が、ある生態系を壊す場合、その代わりに他の場所の生態系を守ると誓う。この仕組みは本当に効果があるのか。

 まず、カーボンオフセットと同じ問題が現れるに違いない。例えば、遠い地域を保護すると誓って、他の誓約にも同じ地域を使う恐れがある。さらに、その期限が短すぎたり、契約のよって変わったりし、いつまで保護されているか、分からない。オフセットされたプロジェクトの終了までだけかもしれない。すなわち、保護の誓約ではなく、破壊の延期の誓約である。会社の広報には、いい仕組みだが、環境には効果はあまりない。

 生物多様性や自然資源は、資産であるため、会社や国の会計に含まれなければならない。ある会社が生物多様性を破壊する場合、生物多様性の減少の補償として、課税する必要があると思う。しかし、生物多様性の価値を計るのは、非常に難しい。種の数や種の差を数量化できるが、このような生物的な値を経済的な値に替えることは、まだできない。

 このように、提案された「生物多様性オフセット」という仕組みには、問題が多すぎて、環境には効果がない。生物多様性の経済的な価値を計る方法を考えることが前提条件である。価値が分からないものを守ることはできないからだ。

科学研究資金の悩み (2010-09-16)

 金融危機や緊縮経済政策のせいで、どの分野の資金も減少してきた。科学研究も、その一例である。短期のプロジェクトしか資金をもらえないため、基礎研究者は、他の資金源を探さなければならない。テロの恐怖によって、軍事予算が拡大したため、軍隊が研究に資金を提供することができるようになった。研究者にとって、この金を受け取るのは、本当にいいことなのだろうか。

 歴史上、軍隊が科学研究に融資するのは、普通のことだった。なぜかというと、戦争の時は、勝利のため、平和の時は高過ぎて手が届かない技術を開発できる。戦争のための技術なのに、意外と民間の応用にもつながる場合が多い。例えば、冷戦は宇宙飛行を発展させ、現在の通信衛星を可能にした。 いわば、戦争は経済バブルの一種だ。

 軍隊は、基礎研究に融資して効果を挙げることができても、倫理の問題が残っている。多くの 研究者の動機は、人類の進歩と幸福である。こんな理想主義は、軍事と矛盾している。実は、道徳上の問題だけでなく、本物の危険もある。例えば、最近開発された非致死性武器や監視カメラの普及を見ると戦争の対象は変わったと分かる。敵は、他の国の軍人ではなく、自国民になった。世界中、現代の政府は、安全性の意識を操ることによって、自分の社会を牛耳ることができる。 新しい学問分野として「戦争学」を創設して、この世界の軍隊化に関与したい研究者はあまりいないはずだ。

 つまり、軍隊の資金を受け取る研究者達が増えるとすれば、注意が必要である。まず、研究の結果を公表しなければ、軍事に操られてしまう恐れがある。さらに、軍事が民間を操る試みを明らかにすることが望ましい。そうすれば、倫理的な問題が小さくなる可能性があると思う。

市場経済の病 (2010-08-30)

 大多数の国々の経済制度は市場経済である。このシステムでは、価格は需要と供給で決められている。大勢の人には、絶対的な掟だが、例外もある。特定の状況では、コストの一部は価格に含まれていない。こんな場合には、第三者が不足分を払わなければならない。この現象を「負の外部性」という。

 「コンピュータ・セキュリティ」はこの一例である。ある会社がソフトを買うとき、ソフトを売る会社と買う会社の二人の経済主体しかいないように見える。このソフトのせいで何らかの個人情報被害が発生した場合、その負担を払わせられるのは、隠れた三人目の経済主体である顧客だ。なぜならば、現在の市場のルールには会社側に個人情報を守る義務がないため、個人情報を守るソフトが開発されておらず、個人情報侵害がますます広がるにちがいない。現在のルールでは、本当にコストを負担すべき経済主体が負担しないという問題がある。その結果、個人情報侵害を広げてしまうソフトの価格が低すぎて需要が上がってしまう。このような現象は望ましくない。

 この現象の遍在を長調するため、他の例を挙げたい。 自然の中のレジャー活動の人気のきっかけで、事故や救助費用が増えつつある。この状況にも、負の外部性が隠れている。 救助を供給する救助隊と、救助費用を十分払わない観光客と、 救助費用を払う自治体が、前述の三人の経済主体になる。 観光者が救助のコストを負担しない結果、責任ある行動の動機が生まれないことだ。このように、サービスを受ける人(観光客)とサービス費用を払う人(自治体)が異なる場合、需要が増え過ぎて、本当に必要なサービスを提供できなくなる。特に命にかかわるサービスであれば、状況が深刻になる。観光客に適当な価格で救助費用を払わせる仕組みを考えることだ。この例には、保険制度が適切だと思っている。

 このように、物の価格が適正ではなければ、需要と供給のバランスが崩れてしまい、市場経済が安定しない恐れがある。経済の安定を守るため、負の外部性を防ぐように規則が必要であると思う。

無責任な観光客 (2010-08-23)

 自然の中のレジャー活動が僕達都会人の 人気を集めている一方、事故も増えつつある。都市に住む人は自然の危険を知らず、自分の準備不足や不適当な装備に気付かず、事故は驚くにはあたらない。観光業界を発展させながら、観光客の安全性を高めるために、どうすればいいのだろうか。

 この問題の原因は、観光者が救助のコストを負担しない結果、責任ある行動の動機が生まれないことだ。サービスを受ける人(観光客)とサービス費用を払う人が(自治体)異なる場合、需要が増え過ぎて、本当に必要なサービスを提供できなくなる。特に命にかかわるサービスであれば、状況が深刻になる。観光客に適当な価格で救助費用を払わせる仕組みを考えることだ。

 安全性を高めるには、救助費用を観光客から取るという考えがあるが、救助を要請する人に払わせれば、危険な状況でも救助を求めるのをためらったり、救助料金のかからない場所へ行ったりするので、安全性にも観光業界の発展にもよくない。その代わりに、「保険制度」が望ましいと思う。例えば、入場料や電車料金救助に保険料が含まれれば、救助の費用を賄えるだけでなく、自然の危険性に対する観光客の意識が上がるはずだ。このようにすれば、安全性を高めることも、費用を抑えることもできると思う。

大学ランキング (2010-08-16)

 大学を選ぶ時、生徒がどこに入学すればいいのか迷っている。インターネットや雑誌が「大学ランキング」を発表しているが、誰のために作られたのか。どんな意味があるのか。  大学ランキングの算出方法を確認しよう。複数の視点から大学を調査してから、それらの視点による大学の質を点数化して、この点数を組み合わせる。この方法は簡単に見えるが二つの問題がある。

 その一、算出の参考データは過去の産物である。例えば、ある大学の研究者がノーベル賞を受賞したら、数十年前の研究のためなので、数十年前はいい大学だったと分かるが、今の状況は分からない。その上、このランキングは、特に、就職先の人事や他の研究者たちに大学がどう見えているかを示す。すなわち、本質ではなく、大学の広報の質を計るものである。

 その二、点数の組み合わせ方を変えれば、ランキングも変わる。一つの数字だけを使えば、教育や研究の多様性が見えない。大学生に有効な点数の組み合わせ方は、就職先の企業に有効ではない。特殊な大学の価値を計れない。明確な意図があれば、意味があるランキングを算出できるが、意図がなければ、意味がない。

 このランキングの問題は、大学に限られていない。株式や社債やウェブサイトやソフトなど、様々な分野にランキングが現れている。ランキングの信頼や有効性を上げるため、仕組みを改善する必要がある。例えば、ランキングの要素の点数を公表し、ユーザーがこの要素を組み合わせて、オリジナルのランキングを作れるようにすることが望ましいと思う。

新たな政治家たち (2010-07-22)

 数百年前、マキャヴェッリは「君主論」という本の中には、どのように権力を得て維持すればいいか仕組みを説明した。現代の情報時代にも、権力者の望みは変わらずにそのアドバイスはまだ有効だが、情報技術の発展によって状況が変わった。権力者がその権力を行使する手段が増えた。他方で人々が権力を監視して制限できる可能性も増えた。情報時代だからこそ、情報が、権力者にも、人々にも、主な武器になった。権力者と人々の力の均衡は、どう変わったのか。

 まず、権力者は人の認知バイアスを使って、人の意見を操ることができる。例えば、メディアで発表された事件は重要に見えるが、発表されない事件には人々はあまり気付かない。政治家が、嘘をつかなくても、情報を操作するだけで、手品師のように、人々の注目をある事件に引きつけることができる。一番効果的なトリックは、「究極の悪」である。20世紀においては共産主義だったが、今は、テロリズムだ。この究極の悪が現れた途端、人々はパニックになり、権力者はこのパニックを利用して人権を侵害してしまう。人間は情報社会に住むため進化しなかったので、やはり操りやすい。

 さらに、政治家と金の関係は問題点である。今の政界で、すべての人が権力のある政治家や支配者になれるわけではない。政治家になるため、お金が必要だ。経済界との深い関係を持ったりして、選挙戦のため、資金をもらった政治家が大勢いる。経済界より、メディア帝国の力を借りれば、検閲を使わずに非客観的な情報を普及させることによって、真実を隠蔽して世論を操ることができる。

 情報技術は権力者に新しい武器を供給したため、政治家と国民の力のバランスは不安定になった。我々は情報の資源や目的を疑うべきだ。それだけでなく、情報の危険性を認識する必要がある。そうすれば、政治家が国民を操る可能性が低くなる。

言語と学習 (2010-07-12)

 精神分析者のラカンは「無意識は言語のような構造を持っている」と述べた。彼が言いたかったのは、主語・目的語や名詞・動詞や他動詞・自動詞・受身などの言語学的な概念を使って無意識の働き方を説明が可能であるということだ。しかしどんなことにもこの言語学的な構造を応用できる。例えば、言語は脳の働き方や学習能力への影響をもたらすのではないだろうか。

 新しい分野を学ぶ際に、言語は大切である。複数の言語ができれば、学ぶ道が増え、脳の可塑性が上がる。例えば、子供の脳は吸収力があるため、言語をはじめ、新しいことを学ぶのは簡単だが、大人になってから、この学習能力がどんどん衰えていく。従来の考え方に捕らわれているため、新しい考え方を受け入れるのは、難しくなる。この衰えを予防するには、外国語学習が有効であると思う。

 チョムスキーは「あらゆる言語が同じ構造を持ている」と訴えた。新しい言語を学んでも、実は新しいことを身につけたわけではないという考え方もある。僕はそう思わない。その逆に、外国語を学ぶべきだと思う。

言語と文化の多様性 (2010-07-05)

英語が国際的な言語になった結果、 他の言語を使う国の知識や文化は英語に翻訳されないかぎり、普及できず、孤立してしまう。 中世のラテン語や啓蒙時代のフランス語がそうであったように、英語による文化支配時代は新しい現象ではないが、英語圏の文化だけが世界中に流通したり、珍しい言語が英語などのより重要な言語に取って代わられて、消えてしまったりしている。これは望ましくない事実だ。

歴史上、単一文化は珍しくないが、その中に暮らす人々にも、 危険性がある。人々は言語という眼鏡を通して、世界を見る。その分世界観が狭まる。例えば、どんな言語においても、名前があれば、その物は重要になるが、 名前がなければ、認識の対象にすらならない。世界観の多様性を守るため、どうすればいいのだろうか。

 まず、インターネットは遠く離れた人同士を結んでくれるため、少数言語を使う集団やその文化が生き延びることができる。 さらに、その単一文化による弊害を対処するため、僕は二つの対策を勧める。 まず、外国語学習を奨励すること。次に、まだ英語に翻訳されていない作家を対象とする文学賞を創設すること。 そうすれば、英語による独占があっても、英語圏以外の 文化の多様性を守ることができると思う。

現代的な検閲 (2010-06-28)

 イルカ漁を批判する「ザ・コーヴ」というドキュメンタリー映画は、今年の東京国際映画祭で 注目を集めたが、抗議の声が多く上がったため、映画館側が上映を自粛した。まるで、検閲みたいだ。 なぜこんなに表現の自由が侵害されたのか。 この自由を回復させるため、どうすればいいのだろうか。

 どんな国にも、微妙な問題がある。 日本の場合は、日本の独特な価値観を守るため、 欧米の価値観に反対するという伝統的な習慣がある。相撲や捕鯨は、その例である。

日本でもあまり知られていない イルカ漁もその一つだ。

 さらに、情報時代の人々は、操られやすい。 テレビや新聞などから受けている情報が編集され、扇情的な要素が強調されたり、敏感な話題が削除されたりしていることに気付く人は少ない。その結果、冒頭で述べたように 映画の内容に抗議する人は、映画のメッセージを封じることかできる。

 この検閲と戦うため、まず、漁師に質問する必要がある。そんなに必死になって、映画を上映しないように行動をする様子を見ると、彼らは、何かを隠していると疑わざるを得ない。 なぜそんに恥じるのか。なぜ、反ドキュメンタリーを作らないのか。 もちろん、 シーシェパードのような暴力的な行為を避け、 情報だけで戦うべきだ。

 違法ダウンロードのためよく使われている「P2P」という技術は、検閲と戦う武器となることができる。 もしこのドキュメンタリーの作者が、 自由に映画の配給を許せれば、 この残酷な狩猟を広く周知できる。意 外に、人気が出て、DVDの売上も伸びるかもしれない。

 情報社会が来るとともに、自由への脅威が増えていることは、 驚くべき恐ろしい事実だが、情報も情報技術も武器となる可能性は、 少し安心感を与えている。

 作品に 観客の意見を替えられるメッセージを含めることは、新しいではないが、前より、今の情報時代に効果がある。だが、情報社会だからこそ、操縦されないように、情報リテラシーが必要だ。

エネルギーの渇望 (2010-06-21)

 先進国で、エネルギーを巡る問題が山積している。最近のメキシコ湾の石油流出だけでなく、近年、米国の送電グリッドの劣化による故障や、ロシアの天然ガスの恐喝騒動や、航空業界に影響を与えているオイルショックなどの問題が起き続けている。なぜこのような状況になったのか。  

中国やブラジルの需要の上昇が エネルギー業界を変え、各国が新しいエネルギー源を渇望して必死になった と思われるが、むしろ先進国の方に問題がある。先進国の政治家が、石油を供給している中東諸国の不安定な政情に脅かされ、中東の石油への依存を減らすため、 必死に他のエネルギー源を探している。 石油が枯渇する恐れとテロへの不安は 先進国の新エネルギー探求を加速させた。

 最初に述べた事件の原因は、半分解決された技術的な問題だ。焦って、安全対策を怠ったため、これらの事故が起きてしまった。例えば、安全な深海の石油の採掘も、安全な放射廃棄物処理も、大気汚染なしの石炭燃焼も、技術的な問題なので、時間と人材をかければ、かならず解決が見付かる。だが、高いリスクを抱えた数十年に渡る長期間のプロジェクトなので、エネルギー会社は、まず利益のことだけを考える。そのため、大きい問題があっても、解決を後回しにしてしまう。残念ながら、政治家たちも、こんな問題をゆっくりしていたら選挙が終わってしまうので、興味はない。

 エネルギーの需要に応えられる技術が既に開発されていてもおかしくないはずだが、エネルギー 市場が需要と供給のバランスをコントロールできないせいで、必要な技術の開発が遅れている。 政府の役割は、この需要と供給の不均衡に対処することだが、政治家が近視眼的になった。各国政府は、選挙を考えずに新技術を開発し長期的で安定したエネルギー供給に方針転換しないかぎり、冒頭で述べたような危機が永遠に続くと思う。

人口減少とアニメの将来 (2010-06-14)

日本の人口減少は、文化に様々な影響を与えるはずだ。 アニメを例にとって、文化の変化を予測してみたい。 現在、日本のアニメは、生産面でも、消費面でも、質の面でも、 まだ世界一だが、人口の変化によってどう変わっていくのか。

 まず、 少子化のせいで、主なターゲットである若者が減少して、アニメ産業が、衰退する恐れがある。アニメ市場が国際化しているので、 完全に消滅するはずはないが、 生き残るために 日本のアニメ文化が 他国のアニメ文化と融合せざるをえない。独自性を失う可能性が高い。

  日本のアニメは他の国のアニメにはない二つの特徴を持っている。 一つ目は、自然との調和といった日本の価値観が、アニメにも反映されていることだ。二つ目は、動画や画質の先端技術だ。だが、技術的にトップで生き続けることはできないだろう。しかも、日本的な価値観が他国のものと融合して独自性を失うと思う。従って、日本のアニメの将来は暗いだ。

 人口が減るに従って、アニメの生産が減る。アニメだけでなく、他の分野にも、人口減少は、止められない時限爆弾になり、 想像以上深い変化をもたらすに違いない。

村上春樹は一人ではない (2010-06-07)

 欧米で、村上春樹は、小説が映画化されて、 ノーベル文学賞まで受賞するかもしれないと思われ、人気を集めている。しかし、読者の熱狂ぶりは過剰なのではないだろうか。

 まず、その人気の背景と作品の特徴を説明したい。現代のあらゆる小説は、ジャンルに分類されている。作家は、まるでレシピーのように、ジャンルによって決められたルールに従って書いている。ダン・ブラウンのスリラーやハリー・ポッターのファンタジーや ミシェル・ウエルベックのつまらない日常生活の小説には、技術的な間違いがないが、構成面で優れた点はそこだけである。ワンパターンなストーリー展開しかできない作家達は読者を驚かせる能力を失った。

  村上の作品は、変幻自在なルールの世界で、読者を無意識への旅へと誘う。この衰えた文学的状況の中で、彼の作品は 輝いている。例えば、日常生活の話だとおもいきや、世界を支配したい羊などの意外な要素が現れ、光景の意味を一転させたり、物語の平凡さを消したりしている。

 だが、独特な魅力を持った作家は村上だけではない。小説の構造の常識を無視した「青白い炎」や、架空の言語で書かれた「時計じかけのオレンジ」や、複数の視点から書かれた「死の床に横たわりて」や、次々と違った形式の物語をつなぎ合わせて読者を驚かせる「知性化シリーズ」などがある。これらは、村上春樹の作品との共通点がある。村上ばかりに注目するのは、僕は間違っていると思う。

なぜ数学が世界を描写できるか (2010-05-24)

 音楽の中に数学的な比率を発見した古代ギリシアのピタゴラスをはじめ、数学者たちは、数式を使い、世界の成り立ちを説明してきた。天体の動きを予測したり、飛行機を設計したりするなど、数学は素晴らしい力を持っている。どのような力なのだろうか。数学者の立場から考えてみたい。

 まず、ある現象の仕組みを調べるとき、「数」でその現象のあらゆる部分を計り、計算している。この数量化は、言語による説明の曖昧さを越え、 より正確な知識を得て、他の現象に応用できる普遍的な結論につなげることができる。 だが、数字を使うこと自体は、数学の特徴ではなく、むしろ、会計学の特徴である。

 さらに、数学を使って世界を分析する時、 数字や数式を使って計算するだけでなく、当たり前な事実を疑ったり、一般常識に挑戦したりする科学的な姿勢も必要である。つまり 、数学というのは、総合的な科学なのである。

 科学的な姿勢と数字を使って世界を観察する態度は 数学者によって始められたが、他の分野にもどんどん広がっている。例えば、どんなものにも価格を与える「ヤバい経済学者(Freakonomics)」も、意外なやり方で食材を変化させる「分子ガストロノミスト」もいる。数学者の僕は、この風潮を歓迎している。

アニメの普及 (2010-05-17)

 世界中で、日本のアニメが普及している。 この動きは、1980年代に、 キャプテンハーロックやグレンダイザーに始まり、1990年代に、ドラゴンボールによって、さらに広がった。 この成功の理由は何だろうか。

まず、従来の欧米のアニメが子供向けだったので、 動画質も、ストーリーの複雑さも欠いていた。一方、日本のアニメは、 総合的な質や魅力的な登場人物 のおかげで、 人気が高まった。

 さらに、冒険・SF・ファンタジー・コミカル・日常生活・恋愛・スポーツなどの ジャンルの多様性もあって、 日本のアニメのターゲット層は広い。

 日本の文化で普及しているのは、アニメだけでなく、漫画も映画もゲームもである。ビジネス面での相乗効果によって、ますます、盛り上がっている。 特に、生き返ったジャポニズムのように 現在の日本の文化は、ヨーロッパ人にとって、魅力を持っている。

 だが、日本のアニメの国際化の未来は、不確かである。なぜならば、世界的な不況のせいで、消費が減り、漫画やアニメを専門にする欧米の会社が苦境に直面している。その上、韓国や欧米との競争が激化しており、日本のアニメの市場占有率は減少する恐れがある。しかし、日本のアニメ産業は、斬新な作品を作ったり、新しい市場を開拓したりできれば、この競争を越えるかもしれない。

無意味になった万博 (2010-05-10)

 五輪を楽しみに待っている人が大勢いるが、万国博覧会の場合はそうではない。 もともと、通信手段や海外旅行の少ない時代に、 万博は各国の技術発展や名産物を展示するためのイベントだったが、テレビやインターネットのおかげで、 この役割は不要になった。一方、一つの分野に絞って、 車やカメラやビデオゲームや映画などの国際展示が人気だ。では、 現代の万博の目的はなんだろうか。

 万博は、社会的意義を与えるため、天然資源や環境問題などの重要な国際的な課題について、人々を 啓発しようと試みているが、国連の無数の国際デーに比べると、効果は薄そうだ。

 五輪同様、万博は新しい建物や交通機関を作るので、 ある地域の発展を速めることができる と思われるが、 終わった途端ほとんど全部解体されているため、そうではない。

 残った役割は、参加する国のイメージアップ しかない。各国が愛国主義的な宣伝競争を始めたように、 一番印象深い建物や展示を考えて競い合って競争している。しかし、万博が行われる地域に住んでいる人以外、博覧会はあまり知られておらず、すぐ忘れられてしまうため、この役割も果たさない。

 現在の万博は、 ある国際的な課題について人々の意識を高めようとしている一方で、各国間の宣伝競争を加速させる。 矛盾した時代遅れのイベントだと思う。

マリフアナの合法化 (2010-04-26)

 禁煙運動が盛んな米国では、マリフアナの合法化の議論が白熱している。大麻の使用を許すのは、本当に正しいことなのか。

 マリフアナはタバコより不健康な物質を含んでいるため、もちろん、体によくない。その上、意欲をなくして、反応を鈍くさせるなど、心理的な影響も与える。中毒になったり、もっと強力な薬物につながったりする恐れもある。

 しかし、今の法律によると、大麻が禁止されていても、事情によっては、所持が許される場合が多いので、意味はない。禁酒時代の法律のように、あまり効かない。その上、タバコと大麻の違いが微妙なので、法律上、別な物質にもかかわらず、人々にとってその違いが分かりにくい。法律の矛盾を解決するために、合法化は望ましい。

 また、新しい種類の大麻のおかげで、マリフアナが強くなっているので、消費者を守るため、売られているドラッグについて詳しい情報が必要になった。だが、違法であれば、そんな情報はなくて、危険性が上がり続ける。安全のため、合法化は望ましい。

 さらに、違法のせいで、医療への大麻応用の研究はほとんどタブーになってしまって、あまり進まない。現在の法律のせいで、未知の成分の発見は妨げられる可能性がある。医療研究のため、合法化は望ましい。

 最後に、大麻使用者を取り締まるのは、警察には、時間がかかる。解禁されれば、警察はより重要な仕事をする時間を得て、税収も増える。時間と経費の節約のため、合法化は望ましい。

 人類がドラッグを使用しないのが一番だったが、飲まないように強制するのは、人の自由を奪うことに等しい。タバコ同様、受動喫煙の問題を避けるため、厳しいルールが必要である。

音楽の堕落か (2010-04-19)

 最近、音楽を学ばずに音楽を作れるコンピュータゲームやソフトが 普及している。このような電子音楽は、 本物の音楽であろうか、それとも堕落した音楽であろうか。

 まず、人の手で作られた音楽とコンピュータで作られた音楽を比べるため、音楽とは何かという質問に答える必要がある。時代によって、様々な定義がされてきたが、例外や矛盾が多く、完璧な物がない。一般的に、聞く人に感情を与える音の配置が音楽だと考えられている。

 人の手による音楽の作曲では、 作曲家が音符や規則を選び、あるモチーフを繰り返しながら、聴衆の期待を生み出したり、実行したり、裏切ったりする。 コンピュータで作られた 音楽はどう違うか。  音楽ソフトの種類がたくさんあるが、一番使いやすいのは、 「サンプル」という録音された音を組み合わせるソフトである。 サンプルには、一つの音符や、コードや、ドラム・ビートや旋律の部分まで、複雑な要素もある。 このようなサンプルには、もう用意された旋律があって、ソフトのユーザがその旋律の配列を変えるだけで、 創造力を使わないで、音楽を作ることができる。 このようなソフトは、作曲の入門として価値があるが、ユーザには、ゼロから複雑な曲を作るのは難しい。

 電子音楽は、まだ若くて、道具として真面目な音楽の要素になりつつあるが、人間の創造力はまだ不可欠である。

伝統と現代 (2010-04-12)

 デジタル世界に入った以来、伝統は進歩の反対と見られ、 自分の起源と文化を恥じ、伝統的なものを現代的なものに代えてみつつある。一方、進化を断り、伝統を守っている人もいる。 この二つの視点を融合できないのだろうか。

 まず、技術の進歩を焦点にしても、伝統は消える必要ではない。 例えば、禅の教えである「簡素」は、プログラムの書き方や情報伝達に応用できる。伝統の詳細が消えても、重要な要素が残る。

 一方、過去を焦点にしても、新技術は役に立ている。例えば、 考古学の理論を確かめるため、古い技術が再発明されたり、 古い油絵を保つため、新技術が考えられたりしている。

 伝統と進歩の融合がもう始まったと見られているが、懸念が残っている。特に、伝統の多様性が均一される恐れがあり、気をつけるべきだと思う。

フランスと日本の花見 (2010-04-05)

 フランスで暮らしていた時、大学の構内に、桜の木がたくさん並んでいた。 桜が咲いている二週間の間で、花びらのカーペットの上を歩いたり、風が降らせたピンク一色の花びらの雨の中で歩いたりできた。残念ながら、イースター休暇と重なっていたので、あの期間は、人気がなく、この景色があまり知られていなかった。その上、この二週間以外、桜の木は葉っぱをほとんど付けていないため、枯れ木同然だった。

 フランスにも花見はあったけれども、ひっそりとした 偶然の出会いだった。

 日本に来てみたら、日本の花見はその逆だった。 葉っぱの青と花びらのピンクが見えないほど人で混雑している。自然な景色の代わりに、青いプラスチックシートや あふれているゴミ箱や 酒を飲んだりタバコを吸ったりする人が 見える。

 日本の桜はフランスより美しいはずだが、人間がこの美しさを台無しにしているので、人ごみを避けるため、山や森の奥にある桜を探しに行った方がよい。

 日本の桜の美しさとフランスの花見の自然との調和が融合できればよかった。

特許を捨てるべきか (2010-03-25)

 一、二世紀前、産業革命の時、工場で使う機械が次々と発明された。発明家は新技術が、外部に漏れないように、技術の詳細を秘密にした。その結果、他社は、この技術を使用できないだけでなく、改善したり、同じ仕組みに基づく新しい技術を開発したりできなかった。 技術の進歩が妨げられないように、特許制度が作られた。それによって、発明家が一時的な独占権を得て、他の企業にライセンスを売り、利益を得ることができるようになった。

 この特許制度は長い間効果があったが、デジタル業界に適当でないと批判が広がりつつある。

 例えば、製品を開発せずに、特許だけを買ったり、ライセンス料を受けたり、 実際に製品を開発する会社を訴えたりする「パテント・トロール」と呼ばれる会社が現れた。

特許は製品を作るための知的財産ではなく、財源そのものになった。大企業さえも特許ポートフォリオを集めたり、競争相手を脅かしたり脅かされたりする。 大手同士の協定があり、冷戦のような状況になった。そのため、新技術を生み出すはずの中小企業は、特許内容にかかわらず、もし訴えられれば、時間もお金もかかるため、 新製品の開発に消極的になってしまった。

現代をデジタル時代ではなく、「弁護士時代」と呼ぶべきだろう。

 今後、特許制度はどうすればいいのだろうか。車輪 や点滅カーソルなどの誰でも思いつくような技術の特許を認めず、「弁護士語」を使わずに技術者に分かりやすい特許状を書き、特許の有効期間を今よりも短縮されば、技術の進歩を救うことができるだろう。

海賊と嘘つき (2010-03-15)

三十年前から、自然の危機に対する認識が広がるとともに、環境保護運動が普及している。だが、この運動がどんどん過激になっている。例えば「シー・シェパード」という反捕鯨団体が、捕鯨船を襲ったり、沈没させたりしている。 なぜそのように激しくなってしまったのか。果たして効果があるのか。武力に頼らない方法はないのだろうか。

捕鯨は残酷で不要な苦しみを与える狩り方と見られ、 日本と北ヨーロッパ以外、世界中で批判されている。 日本は、捕鯨が研究のため必要だと説明しているが、嘘である。実は毎年、発表された500本の鯨研究論文の中に、殺した鯨によるものは、二本しかない。もし、同じ研究をしたければ、より安くて安全な方法もある。例えば、特別な訓練を受けた犬を使って海面に浮いている鯨のふんを収集して、鯨の食生活と胃の病気を調べることができる。

時々、活動家が話し合いによる平静な抗議の結果に失望して、乱暴や違法な行為に及んで、海賊のようになっているが、効果が全然上がらない。 むしろ、鯨肉の需要を減らせれば、 捕鯨産業が自然に消えるはずだ。

捕鯨する側にも講義する側にも問題がある。話し合いで解決できる問題だが、鯨肉のマーケットを消滅させることが不可欠だ。 捕鯨だけでなく、他の社会的な問題も、武力で解決できると考える社会は恐ろしいと思う。

タバコ戦争 (2010-03-08)

 あまり知られていないが、日本の大きさの国では、毎年およそ一万人が受動喫煙のせいで死んでしまう。他の先進国で、禁煙運動が強まっているが、タバコ産業と喫煙者の抵抗も強まっている。命を守るのは望ましいと誰もが知っていながら、なぜこんな抵抗をするのだろうか。

 喫煙者は、タバコを吸うのは、伝統なので、続けるべきだと主張している。しかし、昔、奴隷制度や性差別も伝統的なこととみられていたが、反対する人々が社会運動を起こし、ほぼ消えた。タバコも同じではないだろうか。

 タバコ産業と飲食産業は、禁煙化が営業を妨害してしまうと強く懸念している。 そうかもしれないが、どんな分野でも、 様々な時代の変化に適応しなければならないので、変化に適応できないタバコ産業、すなわち滅びるべき産業を救うのは、 おかしいと思う。

 愛煙家は、タバコを吸うのは自由の表現方法であると言い、 吸わない人が喫煙者の自由を尊重するべきだと主張している。尊重といっても、僕の経験によると、喫煙者は回りの人をあまり尊重しない。例えば、高校の教師として働いていた時、喫煙を制限する法律があったのに、学校にある教師のための部屋は全部喫煙可だった。ようやく、校長が、教師に法律について意見を聞いた結果、 この部屋が分煙になった。

 禁煙化運動は、国際化のおかげで、止められない。しかしタバコ産業は、この運動を阻止しようとするはずなので、世界中できれいな空気のレストランが当たり前になる日は、まだ遠いかもしれない。

胃と脳 (2010-02-15)

 先進国では豊かになるとともに、食習慣が徐々に変わり、ダイエットや菜食主義が流行する一方で、肥満症が広がっている。なぜなのだろうか。考えられるのは、まず、発展した社会においては、食べ物がどこでもあふれているため、人々は買い物をする時でも仕事の際でも物を食べられることだ。例えば、本屋さんで、本を選びながらコーヒーを飲んだり、ケーキを食べたりすることもできる。その上、甘い物やコーラなどの高カロリー食品の広告が至る所に存在し、人の食欲を煽り太り過ぎの原因につながっているのだと思う。

 とにかく、食べさせよう、食べ物を買わせようという食品産業の思惑にひっかからないようにするためには、どうすればいいのだろうか。僕の夕食を見る人が時々驚いている。自分には常識だと思ったいろいろな野菜たっぷりの皿が、珍しいと思われるのは食材の多様性の大切さがだんだん忘れられつつある証拠ではないのだろうか。広告によって作り出される過剰な食欲という副作用を防ぐため、自分のニーズをよく考えて、意識的な食生活が必要だと思う。この批評的な態度は食品に限らなくて一般的な生き方になることが望ましい。

新文化とその影響 (2010-02-01)

 人類の物語表現スタイルが次第に変化している。例えば、昔の神話は文学になった、文学は映画になった。近年、映画がよりリアルな映像になった。単なる技術革新に過ぎないのだろうか。それとも、社会そのものに影響を及ぼす現象なのだろうか。

 映画やゲームは、社会も一変させられる。隠れた社会的な問題を明らかにする力を持っているからだ。異世界を描くことによって、現実の世界の息苦しさや不自由さを露呈し、脱出願望を駆り立てる。その結果、世界を変えられない人が、絶望的になり、ドラッグを飲んだり、自殺したりしてしまう事実がある。だが、ヨーロッパで、一、二世紀前にも、ロマン主義の小説は自殺のブームを起こし、詩人が酒やドラッグにインスピレーションを求めたことがあったので、新しい現象ではない。

 より深刻なのは次のことである。小説の場合は、読者自身が言葉から作品の世界を想像し、頭の中で再現していたが、映画やゲームの場合は、人々が受動的な態度にならざるをえないので、人の想像力がさびついてしまうはずだ。他人の想像を一方的に受けることによって、自ら異なる世界を考えるのも、新たな世界を創造するのも忘れてしまい、活力のない社会につながる恐れがある。

 結局、絶望やドラッグなどの個人的な問題よりも、むしろ人々の思考に対する受身な姿勢と社会の沈滞が心配である。

情報社会における失格者 (2010-01-25)

 ファッション雑誌や広告でありえないほど理想的な体形をした女性が掲載され、憧れた読者がこの姿に近づくため、無理なダイエットなどの不健康な行為に励んでいるらしい。その結果、こうした写真を発表するファッション産業は無責任だと批判されている。近年のコンピュータ技術のおかげで、モデルの写真を簡単に修整して、体形を細く見せたり、歪めたりできるが、新しい現象ではない。理想的な女性像を作るために、例えば、化粧をしたり、コンピュータで肌をなめらかにしたり、読者より若いモデルを起用したり、写真でなくイラストを使ったりしてきた。これらの工夫が急に問題になったのはおかしいのではないだろうか。むしろ、問題なのは読者の騙されやすさだろう。

 現在の世界は批評能力不足病を患っていると思う。日常生活で雑誌やテレビやインターネットなどから膨大な量の情報を受け、その中で、不正確なものと事実を、役立たない情報と重要なのを区別できなければ、今の情報時代に生き抜く人間として失格だろう。真偽不明のファッション写真を鵜呑みすることは、この批評能力不足病の一つの症状である。

 前時代的な「見たから事実だ」という法則は今の情報時代で意味がなくなった。画像だけでなく、あらゆる情報の源を確かめ、その内容を徹底的に疑いながらも、絶対に確実な情報などない世界に慣れるべきだ。そうでなければ生き残れない。

安全の錯覚 (2010-01-14)

 9・11のテロ事件によって、私達の生活が、「安全」という言葉を巡って、大きく一変した。例えば、靴に隠された爆弾事件後、空港で靴を脱がさせるようになったり、液体爆弾計画発見後、機内への液体の持ち込みは禁止になったりして、旅行者の不便や空港の混乱につながっている。新しいテロ事件が起こる度に、既に起きた事件を防ぐための新しい対策がひねり出されている。なぜこんな過去向けのテロ対策ばかり取られているだろうか。

 実はこれらの対策は効果があるように見えて、実際は安全を高めずに、安全たと錯覚させるだけ、すなわち会社に安心感を与えることに焦点が合っている。一般人に影響を与える対策はテロリストにも影響を与えると考えられがちだが、そうではない。

 なぜ安全性の代わりに、安心感に焦点が合っているのか。まず、単なる広報活動のためである。政治家が再選を狙って、選挙民にテロ対策の実績を見せたいが、本当に効果があるテロ防止対策は、お金がかかるし、人々に見えにくい。選挙民から見えやすい対策が優先されているわけだ。

 更に、テロリスト達が同じ方法を繰り返せば、政治家が厳しく批判を受けるのは避けられない。だから、念のため、過去の例だけにこだわって、対策を考えている。次の攻撃を防止するより、不注意で訴えられないような対策である。

 効果的にどうテロと戦うのか。ある攻撃のシナリオを中心するのは無益なので、テロリスト達の行動を理解するように、一般的な対策が必要である。が、完璧な方法はなくて、次のテロ事件を即座に反応できる対策も必要である。

人間文化の電子化と著作権 (2009-12-28)

 世界中、図書館の役割は、知識を保存したり、整理したり、普及させたりすることである。現在の技術の進歩とともに、図書館だけではなく、グーグルをはじめデータ処理の会社によって、あらゆる本の電子化が進められている。利用者からすると、電子化された作品を簡単に検索したり、いつでもどこでも閲覧したりできるので、とても便利だが、著作権を所有する人々は、書籍の電子化は著作権の侵害を助長するとしてグーグルを訴えた。結局、仏の裁判は電子化が違法だと判断した。

 これは不当な判決だと思う。著作権法の目的は、より多くの多様な作品を世界中に生み出すことと、創作意欲を消さないようにすることだ。だが、この判決は、作家より著作権を持つ人々を保護し、その結果、読者が自由に読みたい作品に触れる機会を奪う。ところが、グーグルは著作権に配慮しながら、多数の出版社の書籍を既に電子化したり、検索できるようにしたりした。

 一方、ただ一つの会社が全ての本を電子化することを許されれば、全世界の文化を管理してしまい、悪意がなくても、いずれ歴史と事実の書き換えと検閲につながる恐れがある。

 どうすればいいのだろうか。まず、各国で国際化や電子化に関する国際的なルール作りが必要だ。しかし現実的には難しい現時点では、グーグルのような会社による独占状態に注意して、競争を奨励することが早急にもとめられている。

マグロを救おう (2009-12-21)

 近年、クロマグロの漁獲量が減少しており、絶滅の危機が叫ばれている。

なぜだろうか。どうすればいいのだろうか。

 世界的な高級寿司ブームによって、クロマグロの需要が増え、主に地中海の乱獲が問題になっている。

 絶滅を防ぐため、まず、緊急的な漁獲規制が必要だと思う。通常の漁獲規制は、漁獲量を制限することに限られている、次のような方法も有効である。それは、ある海域で特定の魚の漁を完全に禁止すれば、その場所で繁殖でき、付近の海域へよみがえった魚が出て行くというものだ。漁獲量を制限する対策に比べると、大きい魚ばかり獲られて、小さい魚だけ残ってしまうという状況を防ぐことができる。

 それ以外に、養殖産業を発展させられるというメリットがある。しかし、マグロの場合、この方法には、問題がある。例えば、食感や色を改良できる餌でマグロが好むものを準備するのは非常に難しく、死んでしまう恐れがある。さらに、狭い場所での養殖は病気が発生しやすいため、環境への悪影響が心配される。

 魚の移動には国境はなく、一ヶ所で漁獲規制しても効果はない。つまり、一国のみでこの問題を解決するのは不可能である。各国々の政府が国際的なクロマグロの漁業と回復について協定を結ぶべきだ。

インターネット利用の犯罪化 (2009-12-14)

 インターネットで音楽や映画の違法ダウンロードが増え続けています。ヨーロッパではこの行為を防ぐため、法律が改正されました。それに対して、多くの利用者から批判の声が聞かれつつあります。

 客が本当に敵になったように、レコード産業が著作権を改革するために働いています。この新しい法律は、違法ダウンロードの疑いをかけられる人のインターネット接続を強制に切断というものです。僕も、これは、危険な法律だと思います。

 なぜかというと、今の私達の生活には、インタネットが不可欠な道具になりました。情報を調べたり、友達と話したりするためだけでなく、仕事や就職活動にも必要です。この法律の原因でインタネットを使うことができなくなった人は、実は社会から見捨てられた存在なのです。

 その上、技術的に誰が何をダウンロードしたかを確認するのは難しいので、冤罪の恐れがあります。例えば、契約者以外の人間が回線を無断利用しているケースや、ファイルの中身を確認できずに、ファイルの名前だけで訴えられたケースも実際にあります。

 個人な通信を聞いたり、充分のない証拠の上で罰したりできるレコード産業は1984のような恐ろしい世界を作っていないのでしょうか。状況が悪化する前に国民との均衡を回復すべきでしょうね。

科学的な研究と不況 (2009-12-07)

 不況を解決するため、日本の政府が様々な分野で支出を削減したり、消費を拡大したり、新しい雇用を創出したりできる仕組みを考えています。

 その際、文部科学省でも科学予算を削減する検討させています。どんな事業を対象するのか。ある計画の科学的な価値をどう測るのか。なぜ政府が科学的な計画のために国民の税金を使って支払う必要があるのかと言う問題が議論されています。

 国民生活に齎す利益がある計画を優先すればいいと思われていますが、僕はそうではないと思います。なぜならばもしリスクが少なければ、民間の投資家にとって、成功の確率が非常に高ければ、政府の資金を出さなくても民間の投資家が集めることができます。

 スパコンや素粒子加速器などの拡大な予算が必要のプロジェクトは、社会に利益があっても、政府には負担が大き過ぎます。ですから、他国や民間からの協力者を見つけて、コストを減少をできると思います。

 基礎研究は、コストが高いにもかかわらず、結果が得られない場合は多いし、「多額の予算がお金の無駄だ」と言う声が聞こえ始めています。非常に危険だと思います。今現在行っている研究は明日の技術と企業の繁栄となり、大きな利益がつながります。それだけでなく、基礎礎研究を諦めれば、数十年後、若い科学者が育つ環境がなくなり、基礎科学に基づく新技術が現れなくなる恐れがあります。

 経済状況を越えるため支出の縮小が必要なのに、科学研究が利益になるのは時間がかかりますので、この複数の事業を続けられる工夫を考えましょう。